フジヤマのトビウヲ

讀賣新聞に「時代の証言者」といふコラムが連載されてゐて、今は、水泳の古橋広之進さんのお話が続いてゐる。23日付の分では、古橋さんが「フジヤマのトビウヲ」といふあだ名を付けられた全米選手権について語られてゐた。非常に印象深いお話だつたので、感じた所を二三記す。

なにしろ戦後4年しか経たない1949年のことである。現地の新聞では「ジャップ」の蔑称で呼ばれ、それまでに古橋さんたちが出してゐた記録については、「プールの長さが短いのでは」と平気で書かれてゐたのださうだ。それが、1500m自由形で、米国選手に180m近い差をつけ、世界新記録を出すと、スポーツ記念館に飾るので水泳パンツが欲しいと言はれ、大会が終はると、ロサンゼルス市長の要請でパレードに出て、楽隊の後ろを日の丸の旗を持つて行進した、といふのだから、痛快この上ない。ちなみに、同じ競技で橋爪四郎さんが、古橋さんの前に泳ぎ、世界記録を出してゐる。

一方では、米国といふ国の懐の深さが出てゐる話だと思ふ。戦勝国のゆとりが為せるわざかも知れないが、旧敵国の選手を全米選手権に出場させ、優秀な選手は国籍に係らず褒め称へてゐるのだ。仮に、冷戦の影響で、米国の日本を見る目が次第に変はりつつあつたのだとしても。

他方、忘れられないのが在米日系人の人たちである。古橋さんを自宅に泊め、食事からプールへの送り迎へまで世話したのは、フレッド・和田勇さんといふ日系二世である。記事の解説によれば、米ワシントン州の貧しい家に生まれ、12歳で働き始めた苦労人だが、古橋さんらの面倒を見た後も、渡米した日本選手たちの世話を続け、64年の五輪開催地として東京が立候補した時には、自費で中南米諸国を回り、投票権を持つ国際オリンピック委員会委員に東京開催の意義を説いた。その中南米の票が東京誘致の決め手となつた。

和田さんは自宅で祝賀パーティーを開いて呉れ、古橋さんたちのお礼に、かう応へたといふ。「感謝しなければいけないのは、日系人の方です。胸を張つて街を歩けるやうになつたのです。一世のおばあさんが、皆さんに手を合はせてゐるのを見ました。」

戦時中の日系人は、二つの母国に挟まれ、大変な苦労をされた。それでも誇りを失はず努力を続けられ、それが米国社会でも評価されてゐたからこそ、ロサンゼルス市長もパレードまで考へたのに違ひないし、中南米諸国を回つた際にも、現地に移住してゐた日系人の支へがあつたものと想像される。かうした人たちのご苦労や日本を思ふ心を忘れてはならない。