BMIの倫理問題

本日付の朝日新聞朝刊、科学欄のコラム「探求人」に、慶應義塾大学理工学部で Brain Machine Interface (BMI) を研究してゐる専任講師の牛場潤一さんが紹介されてゐる。BMIは、運動神経を傷つけられた障害者の脳波を取り出し、その信号を使つてロボットの腕を動かす、といふ類の技術である。

 

武石涼子といふ記者の書いた記事によれば、牛場氏は、BMIの倫理問題を気にかけてゐるらしい。

科学技術には正負の二つの側面がある。脳波から何かを読みとることは、マインドコントロールにつながるなどの批判がつきまとう。
 体が不自由な障害者の支援ために考えた技術が、健常者の能力アップのために使われる可能性もある。BMIについて、一般の人に話すときは、いつも倫理の問題でしめくくっている。「あなたは、こういう技術をどこまでなら受け入れられますか」

 

かうした分野でも、科学と哲学とが協力すべき余地は大きいと思はれる。「脳波から何かを読みとることは、マインドコントロールにつながる」といふ言葉の意味は、必ずしも明確ではないが、脳波を他人に見られるといふことは、心の中を覗かれるのに等しいといふ気持ちがするのは、分かる。

 

しかし、ベルクソン流に言へば、脳波で見ることができるのは、心の全てではなく、それが身体に現れる部分だけだ。人の様子を仔細に観察してゐれば、外からでも窺ひ知ることができるものと、基本的には同じ性質のものである。

 

脳波が、さうした外部からの観察では得られないやうな情報を提供する可能性は、否定できないが、例へば血圧計の目盛を他人に見せながら街を歩く人はゐない。脳波も、医師のやうな特定の専門家だけが見られるやうにすれば済むことだらう。BMIを利用して身体不随の人が街に出ることが可能な時代が来れば、当然、それに応じた新しい礼儀作法が必要になるだらうが、それは新しい倫理といふほど大袈裟なものではないやうに思はれる。

 

ともかく、BMIのやうな新しい技術の出現により、人の心と身体の関係といふ問題は、我々に身近な、現実的な問題になる。かうした問題に何のヒントも与へられないやうでは、哲学なぞ無用の長物だといふべきだらう。