組織の論理

軍隊といふ組織のもつ本質的な非論理性、非倫理性について、アラン(1868-1951)が書いたプロポを読んでみよう。(1921年5月14日)

 

 戦争では、言はれること、書かれたことは、どれも本当ではない。私がまだ仕事に就いたばかりの時、遠くの隊長が電話で尋ねてきた。「将校達はどこにをられる。」食卓についてをられます、と私は答へた。それは事実だつた。しかし、大尉は、理論を説明するのと同じ調子で、私にかう言つた。「決してそれを言つてはいけない。いつでも、監視所にをられます、と言ひたまへ。」一番愉快なのは、この隊長は、通信線の向かうの端で質問しながら、本当の答ではなく、適切な答を求めてゐた、といふことだ。私は、後に、その証拠を千回も見た。これが、すべての階級で絶対的な権限といふものの結果である。真実を言つたといふ理由で人を罰することはできない。しかし、訴へる道のない決定により、一番泥だらけで、一番恐れられてゐる地域に追ひやる方法は、幾らでもある。一人の陽気な少年が、馬達よりも後方で、肉屋の仕事をして、毎日、寝床で寝てゐる。三行の命令があれば、彼を、最も危険な監視所の見張りにすることが出来る。彼は、すぐに慣れる。原則として、持ち場が英雄を作るのだ。とは言へ、この制裁ではない制裁が、避難壕(ひなんごう)にゐる者たちの想像力に力強く働きかけることに、変はりはない。かうした恐れは、危険から離れてゐるときに感じるのだが、人を臆病にする。そこから、人は直ぐに奴隷の状態に陥り、東洋風の専制主義が、お決まりの実を付ける。ついでに、かうした奴隷状態は、戦争特有のものだ、といふ点に注意したい。兵舎で、秘書が兵卒に戻されても、それは死ぬことではない。しかし戦争では、死は、すべての道の先にある。それで、人が認めたがる以上に、気まぐれが崇(あが)められるやうになる。
 しかし、多分、嘘は、この非人間的な活動には不可欠なのだらう。そこでは、目的が手段を正当化することが明らかなのだ。勝利はすべての誤りを消し去り、その訳は誰でも分る。しかし、敗北も、その真の原因である誤りを隠す。抵抗することのできない除去作業で、証拠も散逸するからだ。そこから、真実に従つてではなく、万事良好なやうに報告する、といふ驚くべき傾向が出て来る。そして、万事良好には、いくつもの顔がある。
 戦果の挙がらない、はつきりしない戦ひで、人間の感情の不変な働きにより、ある種の休戦があつて、その間に双方が負傷者を集めた。しかし、何が起きてゐるのか、分つてゐたか。一つの報告を思ひ出す。それは次のやうなことを述べてゐて、その表現の新しさに私は驚いた。「一発の礼砲が、戦闘の再開の印であつた。」返信はすぐに来た。「物事が、すべての命令や軍規に反して、そのやうな形で生じたとは、信じることが出来ない(と、隊長は言つてゐた)。より注意深い調査と、事実に即した報告を要求する。」第二の報告は、間もなく送られ、簡素な、断定的なものだつた。「戦闘の一段階で、ある種の混乱が生じ、一つの説が生れた。さうした外見が全くなかつた訳ではないが、すぐに、現実とは全く対応しないものだと認められた。」これが軍隊流である。慌(あわ)ただしく執行された刑が、余りにも正義から外れてゐたので、数年後に、文民の法廷で取り消されたのを、読者は覚えてをられよう。かうしたぞつとするやうな誤りは、軍法会議の判事は、何が正義で真実であるか、ではなく、何が有用かを探してゐた、といふことで説明できる。「見せしめが必要だつた。」私は、人々が怒ることを望む。しかし、この判事は、あなたや私よりも、悪い人間ではなかつた。酷いのは制度だ。戦争の体制が酷く、その結果は全て非人間的なのだ。ドレフュス事件の際に、軍事的な体制の全体が裁判にかけられたが、ある代議士が、かう言つた。これは歴史に属する。「私は、人がフランス将校の言葉を疑ふことを許せない。」当時、私には、これが滑稽だと思はれた。今、私は、そこに深い意味を見る。

 

しかし、かうした問題は、軍隊に限られたものだらうか。日本の大組織にも、似たやうな風潮はないか。

 

視点を変へれば、日本の職業社会は、長い間、軍隊と同じやうな戦時体制にあつた、とも言へよう。妻子と離れ、単身で仕事に従事する、といふのは、戦時中は当然だが、戦後の平和な時代にも、当り前のやうに行はれて来た。家庭といふ「銃後の守り」は、妻、母親に任せきりだつたのである。

 

かうした不自然な戦時体制が長く続けば、弊害も出る。閉ぢこもりや不登校などの現象が、父親の不在と密接な関係を持つてゐることは、容易に想像できるが、より広く、いぢめや少子化の問題も、その影響だとは言へないだらうか。少子化は、放つて置かれた妻たち、女たちの反乱ではないだらうか。独身は、母親のつらい生活を見て育つた娘たちには、自然な結論ではないだらうか。

 

少なくとも、大組織は、自らの行動が及ぼす社会的な影響について、一度、深く反省してみる必要があると思はれる。そんなことをしてゐたら、会社が潰れる、といふのは、予想される反論だが、「戦時体制」を続けた結果、既に、社会といふ会社の足許が危ふくなつてゐるのではないか。人口が減り続けるやうでは、経済の拡大も期待できないではないか。