身体についての意識

意識するといふのは、自分の身体の状態を知るといふことではないだらうか。意識とは、自分の身体についての意識ではないだらうか。勿論、自分の身体だけではなく、世界の様子を意識することもできる。しかし、その場合でも、常に身体が媒介してゐる。Nicholas Humphrey は、"Seeing Red: A Study in Consciousness"で、見るといふ働きを取上げて、これに似た考へを展開してゐる。

ただ、Humphrey の場合には、意識はあくまで脳の働きであるといふことになつてゐる。見るための神経回路に、この神経回路の動きを感じる別の神経回路が付け加はるだけだ。動いてゐる脳と意識とが同じものであるならば、なぜ、それが二つの形で現れるのかが分らない。他方で、意識を身体と完全に切り離して考へようとする現象学では、心と身体の結びつきが全く説明できない。ここは、先づ、我々が置かれた状況を、なるべく予断を交へないで記述してみることが必要だらう。

ベルクソンが『物質と記憶』の冒頭で、「イマージュ」といふ言葉を使ひながら述べてゐるところは、さうした試みとして、大いに参考になる。また、空間に展開する身体と、これに直行する時間軸に沿つて動く心といふ見方も、あくまで一つの見方に過ぎないが、この世の中を上手く描きだすものではないだらうか。

つまり、我々の意識は、身体(あるいはその一部としての脳)の働きそのものではないが、身体についての意識である限り、身体が無ければ、我々が普通に呼ぶところの意識といふものは生じない、といふことになる。我々の意識は身体そのものではなく、そこから、時間軸に沿つて、つまり記憶といふ働きを使つて離れる力を持つてゐるからこそ、刻々と変化する自分の身体を、「外から」見ることができる。「今、ここ」ではないものがあるからこそ、「今、ここ」に意味がある。しかし、意識が意識として姿を現すには、身体が必要なのだ。