生物学2.0

Economist 誌が、"Biology 2.0"と題した特集を組んでゐる(June 19th 2010)。ヒトゲノム解読から10年になるのを機に、その後の変化を振り返つたもので、当初の夢物語は実現してゐないが、着実な進歩がある、といふ論調。

「生物学2.0」は、生気論を完全に抹殺する一方で、「新生気論」的な側面も持つ、といふ説明がおもしろい(特集p.4)。コンピュータと比較して、細胞の中にある化学物質はハードウェアで、DNAにコード化された情報は組込ソフトウェアであり、細胞内の化学物質の相互作用は、常に変化するプロセッサやメモリの状態に似てゐる、DNAに必要な情報が全て収められてゐるといふ考へを否定する事実は見つかつてゐないが、どういふ訳か、全体は部分の合計よりも大きい、と言つてゐる。唯物主義的な同誌が、なぜこのやうなことを書いたのかは不明だが、生気論のやうな話が出てくるのはこの部分だけだ。

最近の注目すべき成果として、人工合成されたゲノムによる微生物の製造と、ネアンデルタール人ゲノム解析を挙げてゐる。かうした成果の背景には、ゲノム配列決定の技術が進歩し、コストが急速に低下してゐるといふ事実がある。読み取られた配列の分析には、コンピュータが使はれる。遺伝子型から、どのやうにして表現型が出てくるかを分析するのが目的だ。それにより、診断と治療、様々な生物の操作、進化の過程の研究が進むと期待されてゐる。

当初期待された成果がすぐに出て来なかつたのは、遺伝子の発現の仕組みが、予想よりもはるかに複雑だつたからだ。最初は、想定されてゐたよりも遺伝子が少ないと思はれた。しかし、実際には、どのやうな遺伝子があるかといふ問題と同程度に、それらの遺伝子のスイッチがどのやうにオンオフされるかといふ問題が、生物学的にも医学的にも重要であることが分かり、遺伝子といふ言葉の意味も変はつた。また、ヒトゲノムの個体差が大きいことも判明した。

しかし、この複雑な仕組みも分析が可能になりつつあり、細胞の仕組みはやがて完全に理解されるだらう。さうすれば、最終的には、細胞の集まりである動物や植物についても、同じやうに完全に理解できるやうになるだらう。と、Economist 誌は言ふのだが、このあたりの議論が、先の「新生気論」とどのやうに関係するのか、よく分からない。

それに生物は、部品を集めて作られてゐるのではない。一つの細胞が、分裂し、分化して個体を作るのだ、といふ基本的な事実を忘れるべきではない。Venter 氏等によるバクテリアの合成は、かうした全体論を否定するやうにも見えるが、「人工生命」の項でも書いたやうに、ソフトウェアに当たるDNAがあつても、それを解釈するハードウェアである細胞質がなければ意味はないし、同じDNAの配列でも、ハードウェアによつて解釈の結果は異なるのだ。

また、実際に生きてゐる人間のあり方を決めてゐるのは、ヒトゲノムだけではない、といふ研究もある。Nature Vol 465, 17 June 2010の"The tale of our other genome"といふ記事によると、腸内を中心として我々と共生してゐる微生物は、約1.5キログラムの重さがあり、人間の身体を構成する細胞のうちで、ヒトの細胞は全体の10%に過ぎないのだ。これらの共生バクテリアが作る分子は、腸肝循環を通じ、また、腸の傷などから血液に入り、ヒトの健康や病気に影響を与へてゐる。だとすれば、細胞の仕組みが分かれば、その集まりである個体の仕組みも分かるだらう、といふ Economist 誌の意見は楽観的過ぎるかも知れない。少なくとも、その仕事の複雑さは、想像以上だと言へるだらう。

いづれによせ、生物学が、学問的にも、商業的にも、非常に興味深い段階を迎へてゐることは確かだ。