「無意識の意志」

Science 誌の 2 July 2010 号に、"The Unconscious Will: How the Pursuit of Goals Operates Outside of Conscious Awareness"と題するレビュー記事が出てゐる(pp.47-50)。結論部分だけを簡単に訳してみよう。

 

このレビューと分析は、目標を追ふために必要な基本的過程、即ち、手段となる行動の準備と方向付け、及び、目標から得られる価値の評価が、意識的な認識の外で働き得ることを明らかにした。目的の追求は意識的な決定に端を発すると、当然のやうに考へられてゐることが多いが、無意識の源から発することもあり得る。この無意識の目標追求といふ注目すべき能力は、脳や精神の仕組みや働きの結果であり、行動に意味を持つ情報を処理し、表現して、目標追求が、目標の活性化や操作を意識的に認識することなく、社会的な状況により制御されるようにしてゐる。

過去の研究で、指を動かすといつた行動の目標が、意識的に設定されてはゐるが、行動に移される前に無意識に準備されてゐることが示された。ここでレビューした諸文献は、意志の無意識的な性質は、我々の生活に、より大きな影響を与へてゐることを示唆する。指の動きよりもずつと複雑な目標が、意識的な認識の外で活性化されると、最初に意識的に設定されることなく、行動を導く。かうした無意識に活性化された目標により、人々は努力を払ひ、手持ちの可能な行動を選んで、新たな状況における目標を実現しようとするが、その目標や働きは意識されてゐない。一般的に、無意識の目標追求に関する証拠は、無意識の目標の制御が柔軟で努力を伴ふものであり、環境の動的変化への対応に適してゐることを示してゐる。

無意識の目標が、どのやうにして行動を柔軟に制御してゐるかを正確に理解することは、将来の研究課題である。目標は、意識的に認識されてゐなくても、注意や行動を方向づける、といふ主張がなされてゐる。つまり、目標追求を支へる高次の認知過程の働き(作動記憶や実行制御としても概念化されてゐる)は、個人の意識状態を余り気にしないのだ。この見方は、注意と意識とは別だといふ最近の洞察と一致する。

ここで検討した研究は、意識的な目標(明示的な作業の指示によつて誘導されることが多い)と無意識的な目標(プライミングによつて導かれる)は、実行制御に依存する作業において、類似した効果を持つことを示唆する。しかしながら、意識は目標追求には不要であると結論するのは早い。(注意とは別の)意識が実行を容易にする特別な場合がないかどうか、未だ分かつてゐないからである。事実、我々は、我々が行ふ決定や我々が追ひ求める目標を意識的に認識できることを知つてはゐるが、意識自体がどのやうに我々の行動に影響するかを知るための適当な経験的試験法は持つてゐない。今後の研究では、意識的に、あるいは無意識的に活性化された目標が、どのやうな場合に、注意や情報処理を、同じやうに、あるいは異なる方法で方向づけて、目標を行動に変換する認知機能や脳のシステムを動員するのかを探求する必要がある。

 

かうした文章を読むと、言葉の定義が大切だといふことを強く感じる。「無意識の意志」といふ言葉だけを見ると、単なる形容矛盾だとしか思へない。(精神分析は無意識の重要性を説くが、この考へ方には批判も多い。)乱暴な言葉の使ひ方の背景には、我々が普通に考へられてゐる以上に「無意識」に動かされてゐるといふ事実を発見した驚きがあるのだらう。場合によつては、意識や意志といつた心の働きを科学的に(この言葉はしばしば「機械的に」と同義で用ゐられるが)説明してやらうといふ野心が隠れてゐるやうだ。

 

かうした心の仕組みを知らうといふ好奇心や野心は良いとして、言葉を雑に使ふことは、説明しようとしてゐる対象を見失ふ虞れを孕んでゐるやうな気がする。少なくとも、議論の混乱を招くと思はれる。例へば、目標といふ言葉を、意識と独立して使ふのが適当だらうか。動物には本能がある。人間の意図的な活動とは別の形で、精妙な活動をする。カッコウの托卵などの仕組みを知ると、その巧みさに驚く。(他方で、哀れな育ての親の愚かさにも呆れる。)しかし、カッコウは他の鳥に自分の子を育てさせるといふ目標を持つてゐる、と言へるか。さう言ふのは、カッコウを観察する人間だけだ。

 

人間も動物なので、様々な本能を持つてゐる。意識しないで、目的に適つた活動をする。不随意筋を意識的に動かすのは難しいが、生命の基本的な部分はこの種の筋肉の働きによつて支へられてゐる。他方、随意筋が無意識に動く場合もあるのは、誤つて熱いフライパンに触れた時の反射的な動きを思へば分かる。要するに、人間は、意識しないで様々な活動をしてゐる。

 

意識の基本的な働きは、かうした自然の動きを監視し、必要に応じて止めることではないか。ソクラテスのダイモンが止めることしかしなかつたといふのは、意識(あるいは良心)の働きが、先づ、さういふところから始まるものだからだらう。意識することは迷ふことを前提としてゐる。迷ふためには、先づ、行動を止めねばならない。

 

では、積極的な考へは、どこから来るか。様々な発明や発見が夢の中でなされたことを思へば、新しいことを思ひつくのは、論理的な操作によるのではないし、意識的な努力の結果だとも限らないだらう。努力の積み重ねが必要であるのは確かだが、最後の閃(ひらめ)きは、意識の及ばないところから来るやうにも思はれる。だから、芸術家は自分の作品に驚くのだ。

 

その意味では、上記の論文が将来の研究課題だとしてゐる「意識自体がどのやうに我々の行動に影響するかを知る」といふ仕事は、興味深いものだと言へる。