人間の囀り

アラン(1868-1951)は、人間の精神が身体に閉ぢ込められてゐるといふ考へを否定してゐた。さうした彼の意見が窺はれる1921年7月21日のプロポ。

 

人間の精神は、考へを入れた箱のやうなもので、そこから人は必要な考へを取り出す、と見るのは便利だ。しばしば他の考へや、まぜこぜになつた考への包みや、習慣の糸で数珠つなぎになつた考へも一緒に取り出す。農民に政治の話をすると、すぐに耕作について返事をし、兵士は傷や将校、名簿や昇進の話をするやうに。かうした議論の展開はおもしろいし、そこから始めるのも良からう。精神に関することがらの最初の粗描だ。誰でも一番関心を持つことなのだが、非常に難しいものでもある。これに比べると、時計やロースト用回転器なぞ、何だらう。一度よく見れば、どんなものかは分る。そこで、我々は、人間も、歯車のついた機械仕掛けであり、人間の考へはその一部、歯車や部品で、機械の仕組みで廻り、押され、引かれ、人間はこれらの考へといふ準備され、組み上げられた部品を蓄へ持つてゐるのだ、といふやうに描く傾向がある。確かに、狂人は、かうした何曲かを奏で、いつも同じ二三の音を落とす機械仕掛けに、かなり似てゐる。私は、見たことはないがしばしば聞いてゐた、籠のツグミを思ひ出す。そのツグミはよく知られた歌「僕にはうまいタバコがある」を歌ひ始めるのだが、5番目の音より先には決して進まず、彼の楽しげな歌に戻つてゐた。

この例は悪くはない。廻り道をして、私が機械論者として考へ過ぎるのを防ぐ。といふのは、ツグミの自由な歌は、定着でき真似できるものではないからだ。それは、その時々の発明なので、ほぼ一定の条件であるツグミの身体の構造を表してゐるのは確かだが、二度と同じではない羽ばたきの音のやうに、周囲のものに関係し変化する条件である状況や動きも同時に表す。楽しげな鳴声では、鳥が食べたり飲んだりしたばかりかどうか、休んでゐるか、跳ね廻つてゐるか、遠くに一つ飛びしようとしてゐるかで、もつとはつきりと違ひが出る。ツグミの歌は、オルゴールのやうに、鳥の身体の中に閉ぢ込められてゐると言ひたがる人達は、ツグミの聴き方が足りない。

人間や、その囀(さへず)りをよく聴けば、考へが生れるのを、もつとうまく掴める。人が繰返してゐるときには、考へてゐないことに注意したまへ。それは見知らぬ歌を歌ふ籠のツグミだ。5番目の音より先に行つても、結局一つ音を落とす。会話する年取つた外交官のツグミをが、その嘴(くちばし)に、いつも同じ歌を回してゐるのを見かけるやうに。この人は馬鹿ではない。彼は真実からも誤りからも遠くにゐる。全く考へてゐないのだ。彼が自分の歌を、馬について、彫刻された家具について、古い陶器について、歌ふとすれば、諸君はすぐに、羽ばたきに見られるやうな若さ、真実と自由を見つけるだらう。物や態度に従つて、彼は一時の考へを持つ。すぐに忘れられるのだが、美しく真実のものだ。記憶にあるのは、この現在の身体だけだ。坐り立ち、飲んで食べて、物に適合し、その指の間や楽しげな嘴の間で一つの真実を形づくる、傑作だ。だから、多くの自由な人間を見て、彼等がすぐに忘れることを持ち続け、忠実に伝へることのできる人達は、独り言する哲学者よりも豊かな考へを持つのだ。私は、ルソーの『告白録』には『エミール』よりも多くの思想があると思ふ。回想録を読んで、何かを引き出さないことは稀だ。人間を知るために何を読むかと尋ねられたら、私は、同じ歌を繰り返さうと努めるロッシュフーコーよりは、バルザックスタンダールを読むことを勧めるだらう。彼等は漏らされた言葉を多く集め、保存した。確かにロッシュフーコーは、歌の最後まで行くのだが、彼を知つてゐた人達は、もつと自由な歌を聴いただらう。本物の観察者は、いつでもぼんやりしてゐると見えることに注意したまへ。それは、彼が予測できないツグミの歌を狙つてゐるからだ。

 

ツグミの歌でさへ、その身体だけではなく、鳥のゐる環境を反映する。記憶を持つ人の考へが、現在の脳の状態だけで決まる筈はなからう。