大沼保昭氏の『「慰安婦」問題とは何だったのか』を読む。慰安婦の問題が、また騒がしくなつてゐるので、一度勉強をしようと思つて読んだのだが、痛感したのは、この問題が今も生きてゐて、日々新しい歴史が作られてゐる、といふことだつた。本の題名は「何だったのか」と過去形になつてゐるが、それは著者にとつて、特にアジア女性基金の活動が過去のものとなつたからだらうが、この問題は生きてゐる。日本政府が、日本国民が、今、これから、どのやうに対応するかで、この問題が持つ意味合ひは大きく変はることとなるのだ。
この本は、「慰安婦」に関する戦争当時の歴史的事実について述べることを目的としたものではない。「慰安婦」問題に対応するため1995年7月に設立された「女性のためのアジア平和国民基金」(略称「アジア女性基金」)の活動について論じた本である。著者は、「はじめに」で、かう書いてゐる。
この本を読んで、先づ驚いたのは、日本政府が「慰安婦」に対して非常に踏み込んだ対応をしてゐたといふ事実、さらには自分を含めて多くの国民がそれを知らないといふ事実だつた。
時々の総理大臣(橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉 純一郎)が署名をした、上記の文章を含む手紙が、元「慰安婦」に届けられたといふ事実をどれだけの人が知つてゐるだらうか。何故、かうした重要な事実が知られてゐないのか。
この点については、著者自身が多岐にわたる分析をしてゐるが、日本政府の姿勢が及び腰だつたといふ事実が大きいのではないだらうか。
かうした政府の消極姿勢により、折角の事業が世の中に知られることなく終了してしまつた。その結果、今日に至るまで、日本政府は反省してゐない、「慰安婦」に謝罪してゐない、といふ印象が持たれてゐる。政策目標の重要な部分を自ら台無しにしたものだと言はざるを得ない。
韓国がアジア女性基金の活動に対して否定的であつたため、韓国の元「慰安婦」の方々が堂々と「償い金」や「医療福祉支援費」を受け取ることができなかつた、といふのももつと知られて良い事実である。日本側が謝罪や補償をしてゐないのではなく、韓国が自らそれを断つたのだ。
韓国が否定的だつたのは、「アジア女性基金による償いは日本政府が法的責任を回避する隠れ蓑であり、日本政府の謝罪、責任者の処罰、国家補償の実現により尊厳の回復を願う被害者の意思に反する」といふ考へ方に基づく。それは、一つの見解であり、日本はこれを否定する立場にはない。しかし、逆に、韓国の主張をそのまま認める必要もない。特に、法的補償については、戦争と植民地支配に係はる請求権の問題は、1951年のサンフランシスコ平和条約や被害国との二国間協定で解決済みだ、といふ解釈が有力である。戦争責任の認め方のお手本のやうに言はれるドイツでも、道義的責任を認めたのであり、侵略戦争の法的責任を認めたわけでも、個人の補償の法的請求権を認めてゐるわけでもない。
ただ、道義的責任の取り方で彼我に大きな相違がある点は否めない。一言で言へば、日本の政治的指導者の多くが、道義的責任も認めてゐないのだ。それが政府の及び腰の一因でもある。しかし、当時の強国がどこでもやつてゐたことだとは言へ、侵略や植民地化が良いことだらうか。当時でも非難すべき事だといふ認識があつたからこそ、傀儡政権を建てたのではないのか。
日本における教育にも、戦争について肝心なことを何も教へてゐない、といふ大きな問題がある。百歩譲つて、当時の日本の行ひが何ら恥づべきものでないのだとすれば、堂々とさう教へれば良い。しかし、その主張は、国内だけではなく、世界のどのやうな場所に出ても、どのやうな反論に遭つても、少なくとも五分五分に持ち込むだけの説得力を持つたものでなければならない。さもないと、国内でどのやうな自己満足の議論をしてゐても、海外では、日本は悪いことをしただけでなく反省もしてゐない、といふ印象を強めるだけだ。それが、日本の為になるとは思はれない。
大沼氏はアジア女性基金の立ち上げから関与した人なので、それが所期の成果を上げることが出来なかつたことを非常に残念に思つてをられることが、文章の端々から窺へる。時には、読んでゐて憂鬱になることもある。また、「「慰安婦」制度を法的な観点からみた場合、それは、それが設置され、運営された当時の国際法と日本の国内法に反する制度であった。」(143頁)といふ主張の詳しい根拠や、174~175頁あたりに書かれてゐる事後法による処罰の禁止との関係など、もう少し説明が欲しい箇所もある。
とは言へ、「慰安婦」問題を論じるためには必読書であることは確かだ。本を買ふのが面倒な人も、上記のデジタル記念館を閲覧することを強くお勧めする。