変化する自然と動かぬ理念

アランが1923年2月10日に書いたプロポ。

芸術は動かぬものによつて人間の力を表現する。そこにある心の働きに気付けば、動かぬものほど魂の力を示すものは無い。逆に、揺れ動くものはどれも曖昧だ。走る馬は、勇んでゐるのか怖ぢけてゐるのか、突撃か敗走か区別できない。競馬で撮られた一瞬の映像に私が見たのは、見たと信じてゐた力強くしなやかで自信に満ちた勝利者ではなく、狂つた動物だつた。活動する兵士にも恐怖と絶望の印が見られ、それが渾然一体となつてゐる。と言ふより、激しい動きに見られるものには、狂人の錯乱のやうな何かがある。だから本物の力は、流されず自分を省ることで示される。万物の絶え間無い攻撃には耳を貸さず応へもせずに、動物のやうに獲物を狙つたり怯えたりしないで、決めた事だけを見聞きする、英雄とはさういふものだ。彫像は、その一番の手本だ。変はらないのだから。
美しい肖像画の力には驚かされる。それは肖像が虫や光にも、祈りや賞賛にも煩(わづら)はされないからだ。表現するものが少ないのではない。外部からの襲来に応ずるのではなく、自らの性質に応じて表現するのだ。実は全ての肖像画は威厳を描いてゐる。動ずることのない人間を描き出すとは、大いに称へることなのだ。実際、小さな出来事でも王は振り向くが、肖像は動じない。肖像は超人的だ。肖像画には既に宗教的な意味がある。だから動きを描くのが難しい事もわかる。実は動きを絵にするのは踊りだけだ。人は凡ゆる踊りが動きの中に動かぬものを求めてゐるのに気づくだらう。それが踊りの法則だ。現実には動きが少し複雑になると見えない。動きを自然な形で表現する劇場でも、激しい乱暴な動きを描くには多くの混乱が避けられない。また、動きを最も良く説明する動かない一瞬を選ばないといけない。
音楽では、変化の表現をはるか先まで進めるといふ危険を冒すので、より厳格な法則が現れ、繰り返しと後戻りが要求される。音楽は長い変奏か、同じパッセージの繰り返される模倣だ。一つの音も、保たれて動きながらも動かないことで、既に音楽だ。もし変化でしかない雑音が音楽に入ると、すぐに何らかのリズムの法則が必要になり、雑音が雑音である程、この法則は単純で逃れ難くなる。私は太鼓のトレモロにも保持音にも同じやうに動かないものに気づく。同じ不動と同じ意思だ。
伝へられるところによれば、信じ難いが、古代のミモス劇は動きではなく静止で大勢の人を感動させた。誰か優れた俳優を良く見ると、喜劇俳優であつても、その演技の動きは静止から次の静止へと移ることだと気づくだらう。舞台に載るのは騒ぎではなく一連の絵画で、群衆の中では特に、振付の決め事によつて動きが消されてゐる。映画芸術は、逆の例を示すことで、意図せずこれを証明してゐる。そこでは絶え間無い動きが制作の法則だからだ。言葉が根本的に欠けてゐるからだけではない。生まれながらに口が利けないといふのは黙ることではないのだ。何より俳優が、機械の発明を讃へるためなのか、休まずに動かねばならないと考へてゐるからだ。

 

この文章が書かれた頃には、サイレント映画だつたので、弁士がゐたとしても、動きが少ないと退屈だつたのだらう。
アランには「諸芸術の体系」、「芸術二十講」といふ著作がある。芸術に関心のある方々には是非一読されるやうお勧めする。幸ひ、光文社古典新訳文庫で、長谷川宏氏による素晴らしい翻訳が出た。
アランの芸術論は、少数の法則から全てを演繹するといふ類のものではない。それぞれの芸術の具体的な在り方を踏まへた上で、基本的な特性を抽出する。単なる抽象ではなく、多様な芸術の在り方を前提として、そこに一般的な法則を見出さうとする。法則を示すことで作品を見る新しい観点を提供し、鑑賞を深める。かうした理性と現実との対話は、フランス文化の最も優れた部分ではないだらうか。
アランが言ふやうに精神の基本的な働きは、自然の動きに流されず、変はらないものを見出すことだ。不変の法則がその理想だ。時間を消すのだ。科学はこの精神の働きを純化し極限まで進めようとするものだが、全てが法則に支配されると精神の自由には居場所が無くなる。アランは、デカルトに習つて、物の世界と精神の世界を区別することで、この問題を解消しようとする。と言ふより、この頭でつかちの問題を相手にしない。自分が自由だと信じない者には自由はないからだ。