科学的な決定論と自由意志との関係の問題について。
世の中に物理法則があることは、疑ひない。ニュートンの法則、相対性理論、波動方程式等々。これらの法則は、いづれも初期値が与へられれば、t 時間後の状態を示すことを可能にする(その他の条件が不変ならばといふ前提で)。
神様は何でもご存知なので、宇宙の初期条件も知つてをられる。仮に神様が居らつしやらなくても、宇宙に初期値があることに変はりはないし、それを誰も知らなくても、その値と諸々の物理法則に従つて宇宙が動いてゐることには変はりがない。
さうだとすれば、未来の宇宙の姿も、私の人生も、有限な人間にはそれを予め知ることはできないとしても、全て決まつてゐるのだ。
決定論の裏にあるのは、上記のやうな考へではないだらうか。この考へ方のどこに誤りがあるか。
知ることは世界を変へる、といふ点が、その一つではないか。ラプラスの魔についての議論で明らかにされたやうに、知ること、情報を得ることには、エネルギーが必要であり、測定によつて系の状態は変化する。神様は特別かも知れないが、この世の存在が何かを知つてゐるか、知らないかで、世界の状態は異なるのだ。
人間が何かを知れば、それだけで世界は別の世界になる。その新しい世界の状態は、それに続く世界の境界条件となるが、その条件を完全に知ることはできない。或いは、知らうとすると、世界はさらに変化する。
決定論者は、さうした諸々の変化も、全て決まつてゐるのだ、と言ふだらう。しかし、どうしてそれが分かるのか。法則は近似的なものに過ぎないかも知れない。ニュートンの法則が、相対性理論の近似解であつたやうに。また、法則の不変性も、確実とは言へない。物理学者の間にさへ、物理定数が宇宙が生まれてから現在まで間に変化したといふ議論もあるではないか。
要するに、決定論は、何か科学的に証明されたものではなく、科学の前提となる一種の信念なのだ。この世界に、ある種の規則性があるのは確かだ。さうでなければ、考へることも、世界に働きかけることもできないだらう。しかし、法則がある、何かが決まつてゐるといふことと、全ては決められてゐるといふことは、全く別のことだ。
決定論といふ信念と、日々の行動を自分で決めるやう迫られてゐるといふ我々の生活実感が矛盾する時、どちらを信じれば良いのか。
いや、生活実感の方は、信念ではない。事実だ。決定論を信じようと信じまいと、諸君が自分で何かを決めて実行するか、物事の成り行きに任せてゐるかで、諸君の人生が異なる結果をもたらすのは、明らかだらう。
諸君は、自分は何も決められない人間に生まれついてゐるのだ、そんな人間だと決められてゐるのだ、と言ふだらうか。しかし、どうして君にそれが分かるのか。諸君は、自分で決めるのは嫌だ、自信がない、他人に頼りたい、他人の所為にしたい、さう言つてゐるだけなのだ。
この世で一番楽しいことの一つは、自分が考へたことを実現する、自分の夢を形にするといふことだらう。生み出す喜びこそ、生きる喜びなのだ。それを知らずに死んでしまつては、それこそ、生れた甲斐がない。
(決定論については、ベルクソンのやうに、物理法則が真の時間を捨象してゐるといふ批判もあり得るが、これについては、別の機会に。)