民主主義と戦争

1923年2月8日にアランが書いたプロポ。その一月ほど前の同年1月11日、ドイツの戦後賠償不払ひを理由に、フランス、ベルギーの部隊がルール地方を占領し、緊張が高まつてゐた。

 

「出来ることなら彼等を諭(さと)せ、諭せないのなら我慢せよ。」どんな事でも最後はこのマルクス・アウレリウスの言葉(*)に行き着く。私は学生の頃、おとなしいロシア人と知り合ひだつた。彼は、ヨーロッパを平和にするには上手く選んで一万二千人を殺せば十分だと説いてゐた。子供染みた考へだ。心がさわぐと怪物を思ひ付く。かうした狂つた想像力は、それ自身が一時的に化け物になる。この恐るべきロシア人は悪い男ではなく、物知りだつた。しかし、見るべきところを見ないで、私達も皆するやうに、知り合ひでもなく会つたこともない人達を非難してゐた。空想が生んだ相手に向けられた怒りは、静まり難い。自分が作り出して、考へられる限りの虚栄、愚かさ、冷酷だけを投げ込んだものを、どうすれば許せるだらうか。 友よ、この驚くべきものを君はどこから引き出したのか。君自身からではないかと私は疑ふ。君の怒りで生きてゐるのだ。殺すのに短刀は要らない。
全ての人の秘密は一人一人の裡にある。君が自分自身の中に見つける善と悪の混在が、と言ふより善を損なふ暴力の毒が、他の人達にもあるのだと考へ給へ。それ以上は要らない。人間の諸々の悪は、普通の人間のさわぐ心によつて育つのだ。どんな戦争でも、戦つたのは平和を愛する人々だ。丁度、心の中で「殺すのはあと一万二千人だけだ、平和は近い」と考へてゐたあの恐るべきロシア人のやうな、おとなしい人々だ。この人々も「あと小さな屍体一つだけで終はる」と願ふのだ。まるで幽霊を狙つた積りでその度に人を撃ち殺す狂人のやうに。
平和な時にも人々は今と同じやうに、恐れ、憐み、怒り、熱狂してゐた。平和は明日にも実現できる。難しいことではない。「(賠償金が無くて)どうやつて生活するのか」と問うてはならない。人間は平和を得ればこの地で生きられる。諸君は慎重だが物事が見えてゐない。諸君は「この廃墟をどうやつて再建するのか」と訊(たづ)ねる。しかし「これから生み出される廃墟はどう再建するのか、その前に破壊行為の資金をどう工面するのか」は気にしない。災禍に災禍を重ねるのが解決策なのだらうか。だが、ここで私も注意しないといけない。私が苛立てば、さらに災ひが増す。私が自分で招く唯だ一つの災ひだ。この戦争に対する戦争には果てがない。それは分かる。だとすれば先づ私に身近な政治を平和なものにしよう。私は人々と平和を約束する。人々が私と、また彼等の間で約束しない時にはどうすれば良いか。平和を望まないからと言つて、もし彼等を相手に戦ひを起こせば、また戦争が一つ増える。友よ、諸君一人一人が平和を約束するといふ王の権限を持つてゐるのだ。
ただ、この権限にはつきりと気付かなければならない。全ての人々の意見に反する戦争は不可能だと認められてゐるのだ。さわぐ心によつて社会に大きな縺(もつ)れが出来る。さわぐ心の人達が皆な和(なご)めば、縺れは生じない。戦争といふこの大きな出来事は、何千もの諦めによつて起こるのだ。人々がこの無言の国民投票に気付いたといふのは、人間の世界の新しい出来事だと私には見える。市民のこの大きな権限を、今こそ試さなければならない。明日ではなく、今日。

 

民主主義が根付けば世界は平和になるといふ見方があつた。しかし、ロシアのウクライナ侵攻や自称「イスラム国」( "IS" )に様々な国々から参加する若者がゐるのを見ると、指導層の無責任や大衆の無知が戦争を招いてゐるのではないかと心配になる。
ロシアを民主国家と呼べるかについては議論があり得るが、プーチン大統領は選挙で選ばれ、多くのロシア国民に支持されてゐる。 "IS"の台頭は、民主国家であることは疑ひない米国による無謀なイラク戦争やその後の無責任な対応が招いた。
民主主義が期待された効果を生むためには、指導者の質を高めるとともに大衆の教化が欠かせない。だが現実には、貧富の差の拡大や指導者層の身勝手な振舞ひで大衆の不満が高まり、それが対外的な強硬姿勢として現れ、一部の政治家がこれを国内の不満解消や自らの人気回復に使ふといふ、第二次大戦前夜と似た状況が出て来てゐる。
インターネットも、大衆に事実を知らせるといふ役割を果たす代はりに、感情的な反応を煽るために使はれてゐる。Google社は「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすること」が使命だと言つてゐるが、世界中の人々から情報を集めて整理し、それを自社の利益のために使ふに留まつてゐるのではないか。
この事態の責任をGoogleだけに負はせるのは公平ではないだらう。ただ、情報とは、量的に増大すれば良いといふ単純な性質のものではないことは、はつきりと知る必要がある。むしろ、情報量が増大するだけ、それを意味のある形で整理し、自らの判断に用ゐる力が必要となるのだ。検索エンジンだけで成し得る事ではない。

 

(*)アランの引用は文字通りではない。対応すると思はれる部分のフランス語訳と和訳を下に掲げる。

Livre IX-XI
Si tu le peux, instruis les gens et redresse-les ; si tu y échoues, n'oublie pas que c'est précisément à cet effet que la bienveillance t'a été accordée. Les Dieux mêmes sont cléments pour les êtres qui te résistent ; et à leur égard, tant les Dieux sont bons, ils les aident à se donner santé, richesse et gloire. Tu peux imiter les Dieux ; ou, si tu ne le fais pas, dis-moi qui t'en empêche.
(http://www.mediterranees.net/histoire_romaine/empereurs_2siecle/marc_aurele/chap9.html)
汝若し能ふべくんば、教へて他人の不正を改めしめよ。若し能はずんば、汝に之を看過するの責ありと知れ。啻に人のみならず、神も亦時として不正の行を看過して、健康、富貴、名譽等の要求を充さしむることあり。是れ神の慈心より出づ。汝も亦此の如き慈心を抱き得べし、誰か汝を妨げんや。(230ページ)
(近代デジタルライブラリー「マアカス・アウレリアス冥想録」小林一郎 訳 明40.5)