全てを知ることはできるか

人は何でも知りたいと思ふ。自分が生きてゐる「今、ここ」を超えて、その外側の世界を知らうとする。答へが得られるか否かに関はらず、自分が生まれ落ちたのはどのやうな世界なのかを考へずにはゐられない。世界の果てはどうなつてゐるのか、死んだらどうなるのか、そんな疑問を持つたことのない人は少ないだらう。

かうした人類を長く苦しめて来た問ひに、直接答へることは難しい。ただ、これまで生きて来た人達がどう考へたのかを調べてみることはできる。

プラトンの説

プラトン(BC427-BC347)の対話編には、魂の不死に関する対話が何度か出て来る。その「証明」は、その後の西洋哲学に繰り返し登場する神の存在証明などと同じで、言葉だけのもののやうに見える。そもそも、経験的な事実として証明できないのだから、言葉でしか扱ふことはできないのだ、とも言へるだらう。言葉だけなのだから、何とでも理屈はつけられるので、不毛な議論が繰り返される結果となる。

カントの立場
かうした言葉だけの議論に終止符を打たうとしたのがカント(1724-1804)だ。カントも『純粋理性批判』の導入部で、神、自由、不死は、純粋理性が避けられない問題だと言つてゐる(第二版7頁)。そして、そのどれについても正反対の二つの答があり、純粋理性では、どちらが正しいか決められないことを示さうとする。
カントは、人間はこれらの問ひに答へられない、と考へた訳ではない。第二版への前書きを読むと、理性の気ままな動きが、唯物論無神論などの有害な議論につながることを防ぐといふのが、この著作の目的であつたことが分かる。カントにとつては、神、自由、不死のいづれも、倫理といふ視点から欠かせないものだつた。純粋理性では、それを肯定も否定もできないことを示して、後で、実践理性の立場からこれらを認める余地を残さうとした訳だ。
ただ、神、自由、不死が経験により事実として確かめられる訳ではない。カントにとつて、これらの存在は、証明すべきものではなく、信ずべきものといふ位置づけだつたと言へるのではないだらうか。
孔子の考へ
かうした西洋での議論とは違ひ、東洋では、そもそもこの種の問ひを避けようとする傾向がある。孔子(BC551-BC479)は、「怪力乱心を語らず」と『論語』(述而第七)にあるやうに、この世を超えた問題については、語らうとしなかつた。『論語』先進第十一には次のやうな一節もある。
季路、鬼神に事(つか)えんことを問う。子曰わく、未まだ人に事うる能(あた)わず。焉(いずく)んぞ能(よ)く鬼に事えん。敢えて死を問う。未まだ生を知らず。焉んぞ死を知らん。(朝日文庫 中国古典選4『論語 中』31頁)

*1

中島敦(1909-1942)が書いた『弟子』といふ小説には、こんな話も出て来る。
子貢が孔子に奇妙な質問をしたことがある。「死者は知ることありや?はた知ることなきや?」死後の知覚の有無、あるいは霊魂の滅不滅についての疑問である。孔子がまた妙な返辞をした。「死者知るありと言わんとすれば、将(まさ)に孝子順孫、生を妨げて以て死を送らんとすることを恐る。死者知るなしと言わんとすれば、将に不孝の子のその親を棄てて葬らざらんとすることを恐る。」およそ見当違いの返辞なので子貢ははなはだ不服だった。もちろん子貢の質問の意味はよくわかっているが、あくまで現実主義者、日常生活中心主義者たる孔子は、このすぐれた弟子の関心の方向をかえようとしたのである。(角川文庫『李陵・弟子・名人伝』79-80頁)
この話は『孔子家語(こうしけご)』(致思第八)にある文章に基づいて書かれたやうだ。「生を妨げて以て死を送らんとする」といふのは、冨山房『漢文大系』第20巻の註に、「生キ殘レル人人ノ害ヲ顧ミズシテ葬ヲ厚クスルナリ」とある。
釈迦の姿勢
釈迦については生没年についても諸説あり、自身が残した書き物もないので、何が事実かよく分からないことが多い。仏教の宗派が説くところは、極めて多様で、相互に矛盾する部分も少なくない。その中で何を採るかによつて、釈迦の考へが何かも大きく変はる結果となる。
さうした前提の上での話だが、孔子と似た姿勢が見られる経典に『箭喩経』がある。「毒矢のたとへ」が出て来るお経で、パーリ語で書かれた『小マールキヤ経』(英訳はこちら)に当る。
このお経で釈迦は、摩羅鳩摩羅(まらくまら、マールキヤ)の「世界に果てはあるのか」「死後も存在するのか」といつた問ひには答へず、これらの問ひは悟りへの道とは無縁であることを、「毒矢のたとへ」を用ゐて説いてゐる。かうした釈迦の姿勢は「無記」と呼ばれる。*2
知るといふこと
東洋の哲人達が説いてゐるのは、人間には全てを知ることはできない、といふことだ。そもそも知るといふのは領(し)ることであり、相手(それは自分自身を含む)を自分の思ふとほりに動かすために、相手についての知識を得ることだ。人間の力には限りがある。自分が動かすことができる範囲を超えて何かを知らうとするのは、そもそも意味が無いのだ、さう彼らは考へたのではないだらうか。
 

*1:吉川幸次郎(1904-1980)は、この部分について、こんな解説を書いてゐる。

この条は、雍也第六の「鬼神を敬して之れを遠ざく」及び述而第七の「子は怪力乱心を語らず」とともに、後世では、宋儒の無神論の有力な証拠となる。また無神論的立場では、宋儒を継承したばかりか、一そう強化した仁斎は、この条の「古義」でも、かく鬼神と死について語らなかった点こそ、夫子が群聖に度越して、万世生民の宗師となる所以であるとする。また更に議論をすすめ、他の古典に、孔子の言葉として、鬼神や死にふれた言葉があるのは、信ずるに足らないと強調する。その説はすでに述而篇の「古義」に見えるが、ここでも同じことを再び強調する。それに対し、鬼神の存在を認める徂徠が、仁斎に反撥するのもまた、かしこと同じであって、仁斎の見解は、甚しい独断であると、徂徠は攻撃する。徂徠の鬼神存在説は、のちの宣長をみちびくものである。(朝日文庫 中国古典選4『論語 中』33-34頁)

*2:道元(1200-1253)が『辨道話』の中で、霊魂不滅説を厳しく批判してゐる(岩波文庫版『正法眼蔵』(一)31頁以降)が、それはこの釈迦の言葉を踏まへたものだつたのかとも思はれる。