体系化とは

どこに足場を求めるか

「使ふ側から見た思想の体系」を考へると書いたが、体系といふからには、主な問題を漏れなく取り上げるとともに、全体として、ある程度の整合性がなければならない。そして何より、体系の要素となる思想をどこから持つて来るのか。人々が読み継いで来た古典と呼ばれる書物と、最新の科学の成果とが、基礎になるだらう。

古典を読むといふのは、偉人の生き方に学ぶといふことだ。過去の偉大な人達が、私達が出会ふ問題について、どのやうに立ち向かつたかを知ることだ。彼らが出した具体的な答へが正しいとは限らない。デカルト(1596-1659)は精神と肉体とを結びつけるのは松果腺だと考へたが、現代の科学者でこれを肯定する人はゐないだらう。しかし、全てを疑ふことで正しいものを探し出さうとした姿勢には、今日でも学ぶべきものがある。

科学は、何が確かめられた事実であるかを教へて呉れる。ただ、事実の確定は多くの学者の共同作業であり、時間と手間を要する。COVID-19にどう対応するかについて、専門家の間でも様々な意見が出てゐる。新しいウイルスなのだから、その性質を知ることから始めるしかないので、適切な対処法を確立するには時間がかかるのは仕方がない。

最新の科学の場合には、専門化が進んでゐるため、個別の問題を理解できる人の数が限られてゐる一方で、大きな視点から考へる人も不足してゐる。医療だけではなく経済的影響も含めて考へると何が正しい対応なのか、「正解」は一つとは限らない。

事実を踏まへ幅広い視点で向かふべき方向を知るために、私達に何ができるか。その一つが、体系化といふ形で考へ方を整理し、何が根本の問題で何が枝葉に過ぎないのかを見極めることだと思ふ。

どの古典を選ぶか

古典から学ぶとしても、どれを取り上げるかといふ問題がある。学者の立場であれば、古今東西の思想家を読みつくして、その中から代表的なものを取り上げる、といふ作業を行ふのかも知れないが、普通の生活者では、さうは行かない。結局、自分が読んだ限られた本の中から、気に入つたものを取る、といふことにならざるを得ない。

しかし、これは必ずしも欠点だとは言へない。そもそも、代表的な思想家は誰か、何が重要な思想かを、どのやうに決めるのか。その「代表的思想家」が私には理解できないとすれば、その思想がどんなに立派なものであつたとしても、私の人生を豊かにしては呉れない。

勿論、その分野の専門家がどのやうな思想家を重んじてゐるかを知ることは無駄ではない。しかし、最終的には、自分のことなのだから、自分で決めるしかないのだ。

先達としての小林秀雄

とは言へ、何かの手がかりが無ければ、世間にあふれてゐるの書物の中からどれを選ぶかを決めることは難しい。書店に並ぶ片つ端から読んで行くのでは、良い書物に出会ふのは宝くじに当たるやうなものだ。「すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり」*1。先達は有難い。その先達探しも大変だが、小林秀雄(1902-1983)は目利きとして知られてをり、頼りになる。

文芸評論家といふことになつてはゐるが、この人生をどう生きるかについて深く考へた人で、文学者に限らず古今東西の偉人について書いてゐる。小林秀雄に学んだ人は多く、哲学者の木田元(1928-2014)には、『なにもかも小林秀雄に教わつた』といふ本もある。

哲学者 ハイデガーベルクソン

幅広い問題について、根本的な問題から考へる、といふのは哲学者の仕事だらう。思想の体系化を考へる際には、先づ、哲学者の著作をひも解いてみるのが一つのやり方だ。20世紀を代表する哲学者と言へばハイデガー(1889-1976)の名前が一番に挙がるのではないかと思ふ。確かにハイデガーは、ギリシャの古典からニーチェに至るまで、西洋哲学について深い知識を持ち、その講義には学ぶところが多い。ただ、一部の著作を翻訳で読んだだけで言ふのも烏滸がましいが、ハイデガーは哲学のための哲学をやつてゐるやうに見える。哲学そのものに関心が無い人には、余り役立つとは思へない。

他方で、ベルクソン(1859-1941)の哲学は、生きるための哲学だと見える。小林秀雄は「私が熟讀した唯一の西洋の大哲學者」がベルクソンだと言つてゐるが、私達が直面する生きた問題について考へるといふ姿勢が、小林秀雄の求めるものに合つてゐたからではないだらうか。ベルクソンは、科学的な決定論と自由意志、心と身体、生物の進化、宗教と倫理などの問題について、深く考へた。現代の人類が直面する問題について考へるヒントを与へてくれる哲学者だと言へるだらう。

科学の動向

科学の進歩は凄まじく、専門の学者でも自分の分野で出される論文を追ひかけるのに必死だといふ程だから、素人で全ての分野の動向を把握することは不可能だ。各種の雑誌、新聞などに掲載される記事に頼るしかない。

幸ひ、インターネットの発達で、(理解できるかどうかは別として)元の論文を見たり、これに関する専門家の意見を調べたりすることは、比較的容易になつた。新聞やテレビで流されるニュースには、誤解や誇張、歪曲も少なくないので、かうした手段を使つて、自分なりに確かめることが大切だ。

いづれにしても、一人の素人の考へに過ぎない。ただ、かうした作業は、誰もが何らかの形でやつてゐることに違ひない。それを体系化といふ形で表すことで何が得られるか、それは、やつてみないと分からない、と言ふしかない。

*1:徒然草』第五十二段

使ふ側から見た思想の体系

思想*1の体系について語られるとき、多くの場合に、学者の立場から見た体系が取り上げられる。言はば供給側の論理だ。他方で、幸せに生きるために思想を使ふ側、需要側からの体系化といふものもあり得るだらう。ここでは、そんな体系、あるいは整理の仕方の一例を考へてみたい。それは、自分を中心として、次第に広がる輪のやうな形をしてゐる。

I 心と身体

II 個人と社会

III 人間と地球

IV 人間と宇宙

自分を中心に広がる世界

輪の中心には私がゐる。自分が世界の中心にゐると考へるのは、子供じみた見方であると言へるだらうが、一人ひとりの立場から見れば、これが私達の姿だ。世の中は、私が見聞きし、感じるものから出来てゐる。近くのものは大きく見え、遠くのものは小さく見える。その先は見えない。今の私に見えるものの外にも世界が広がつてゐることは、経験からも分かる。自分が世界の中心であるといふことは、自分の知らない世界は存在してゐないのと同じだ、といふ意味ではない。しかし、その世界を自分の目で見ようとすれば、そこまで動いていかなければならない。そこでも、世界は私が中心にゐるやうに見えてゐる。私が見る世界は、いつもそんな姿をしてゐる。

心と身体

人は心と身体で出来てゐる。心は脳の働きに過ぎない、といふ近代的な考へ方もあるが、心が身体に宿つてゐるといふ昔ながらの見方も捨てがたい。自分の身体は、自分であるとともに、自分で自分に触れることができるやうに、心にとつては一つの対象でもある。そこで、心から話を始めて、幸せに生きるために知つておくべきことを整理してみると、次のやうな区分ができるだらう。

I-1 前向きな心

I-2 健やかな身体

I-3 心と身体の間で

幸せには心と身体の健康*2が大切だ。心と身体とのつながりは、薬物依存や心身症などの現代の問題を考へる際に欠かせない、重要な事柄だ。

個人と社会

世界の中心に自分がゐる、と書いたが、人は一人では生きられない。必ず社会の中に生まれ出るのだ。親がゐないと生まれない、といふだけではなく、新生児は誰かの助けが無ければすぐに死んでしまふからだ。個人が集まつて社会を作つたのではなく、社会から個人が出て来たのだ。そこで、幸せに生きるには自分の生まれた社会の仕組みを知ることが欠かせない。社会に関する思想は、次の三つの分野に整理できるだらう。

II-1 経済:生活を支へる

II-2 政治:枠組を築く

II-3 歴史:過去を伝へる

1)衣食住といふ生活に欠かせない物やサービスがどのやうにして作られ、配られてゐるかを知ること、2)社会として纏まるために、様々な決りがどのやうにして作られ、守られてゐるかを知ること、そして、3)この社会がどのやうな経緯でできて来たのかを知ることの三つだ。

人間と地球

今までのところ、生命が確認されたのは、この地球だけだ。人間は、今の技術では、それ以外の場所に短期間留まることはできるとしても、そこで命をつなぐことはできない。地球は人間のただ一つの居場所なのだ。この大切な地球での人間の存続を脅かすのは、環境変化と戦争だらう。そこで、幸せに生きるには、次の三つの課題について考へる必要が出て来る。

III-1 環境を守る

III-2 争ひを防ぐ

III-3 人類として生きる

環境問題にしても平和の維持にしても、一つの国を超えた対応が求められる。国としてではなく人類としての目標の共有や、それを実現するための手段が必要となる。

人間と宇宙

人間にとつての究極の問ひは、「私達はどこから来たか、私達はどこに行くのか」といふものだらう。先づ、科学が何を教へてくれるか。近代の科学が発達するまでは、大地と空とが世界の全てだつた。今や、私達が棲む地球は広大な宇宙の中にあり、その宇宙も137億年前にビッグバンで誕生したと考へられてゐる。宇宙は永遠に続く固定的なものではなく、そこでは星が生まれたり、ブラックホールに飲み込まれたりするやうな激しい変化を続けてゐる場所なのだ。

果てしもないやうな宇宙の姿を知ると、人間がいかにも小さく無意味な存在に思はれることもある。生きて行く意味はどこにあるのか。人間は神や仏に救ひを求めて来た。科学が進んだ今日、宗教についてどう考へるべきかは、避けて通れない問題になつてゐる。

そして、とにもかくにも人間は生き延びて来た。人々はどのやうな信念に支へられて生きて来たのか。

IV-1 宇宙の姿

IV-2 神や仏の救ひ

IV-3 今ここに生きる

体系に基づく思想の整理

使ふ側から見て、思想が役立つのは、世の中を見詰め、自分の問題を考へる際の基軸を与へてくれる、といふ点だらう。上に挙げた体系の一例は、生きて行く過程で私達が持つ疑問を並べたものでもある。これまでに出現した様々な思想が、かうした疑問にどのやうに答へてゐるのかを整理すること、それを少しづつ進めたいと考へてゐる。

*1:「思想」といふ言葉は幅広い意味を持つが、ここでは、物事の基本となる部分についての問ひと答へといふ意味で使つてゐる。例へば、幸せとは何だらう、どうして働くのだらう、などの問ひとその答へだ。日々の生活に役立つノウハウなどの個別具体的な知識は含まれない。

*2:世界保健機関(World Health Organization, WHO)は、健康を次のやうに定義してゐる。

「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること」

しかし「すべてが満たされた状態」など、あり得ないだらう。WHOの「健康」は、実際にあり得る状態といふよりも、目指すべきだが達し得ない理想だ。生まれながらに持つてゐる体質や気質は様々でも、過去に事故や病気で身体を損なひ心を病むことがあつたとしても、それぞれに応じて、前向きに生きる姿があるはずだ。

日本の思想の基盤

思想の共通基盤を持たない日本

丸山眞男(1914-1996)が『日本の思想』に、かう書いてゐる。

一言でいうと実もふたもないことになってしまうが、つまりこれはあらゆる時代の観念や思想に否応なく相互連関性を与え、すべての思想的立場がそれとの関係で——否定を通じてでも——自己を歴史的に位置づけるような中核的あるいは座標軸に当る思想的伝統はわが国には形成されなかった、ということだ。(岩波新書版 5頁。傍点をゴチックに変更)

ここで中核的な思想伝統といふ言葉が指してゐるのは、例へばヨーロッパにおけるキリスト教のやうな伝統だ。

別に座標軸など無くても困らない、といふ考へ方もあるかも知れない。しかし、今日のやうに世の中が複雑化し、「情報」が溢れる時代には、なんらかの座標軸があつた方が、物事を整理するには便利だ。また、自分の生き方を考へる時に、過去の偉人たちが何を考へたのかを知らうとすることは、自然なことでもある。さうした過去の偉人たちの考へが一つの座標軸のやうな形にまとまるとは限らないが、幾筋かの流れができても不思議ではない。

三枝博音(1892-1963)は『日本の思想文化』の中で、「知識人に共通の古典があったか」について論じてゐる。その一節。

近代ヨーロッパの詩人や小説家や科学者たちが、昔の思想家、たとえばプラトンセネカスピノザ、ベーコン、パスカルゲーテというような人たちの著書を読み、感じ、そして引用するように、近代日本の随筆家や小説家や学者たちが、好んで共通に読み、感じ、そして引用した思想家が日本にいたであろうか。この問いは肯定できないようである。現代の日本人の書いた随筆や小説や、学問的論説の類をしらべてみても、それらの作者が、わが国の古典から汲み、それでもって自分の思想の展開をたすけ、そのためにのびのびと想を発展させているとは思えないのである。(中公文庫版 79頁)

ここでも、日本の思想が全体としてのまとまりを欠き、共通の基盤と呼ぶべきものが見当たらないといふ説が述べられてゐる。

その原因

三枝は、「いったい日本では、それぞれの時代における古典の時代化ということが、なかったのではあるまいか。ファウスト伝説に対するゲーテのような人がいなかったのである。わが国の古典はその思想性を発展せしめられずにいたのである。」と述べて、かう続ける。

私はその理由を、日本には文化の横の交流がなかったためであるということに、見出さねばならぬと思う。日本では為政者は宗教や道徳に伴う学問を、政治的観点から普及したけれども、その場合、特殊の一つの流派の学問を採用することはしたが、学問の諸派全体の交互的影響を企てることをしたとは考えられない。(同 81頁)

丸山は、『日本の思想』に収められた三つ目の論文「思想のあり方について」で、「ササラ型とタコツボ型」といふ図式を示してゐる。日本の学問は、共通の基盤を持つた「ササラ型」ではなく、学問の間での交流が乏しい「タコツボ型」になつてゐる、といふのだ。その理由について丸山は、次のやうの述べてゐる。

日本がヨーロッパの学問を受け入れたときには、あたかもちょうど学問の専門化、個別化が非常にはっきりした形をとるようになった段階であった。従って大学制度などにおいては、そういう学問の細分され、専門化した形態が当然のこととして受け取られた。ところが、ヨーロッパではそういう個別科学の根はみんな共通なのです。つまりギリシャ——中世——ルネッサンスと長い共通の文化的伝統が根にあって末端がたくさんに分化している。(岩波新書版 132頁)

その結果、ヨーロッパの学問が「ササラ型」であるのに対して日本の学問が「タコツボ型」になつたといふ訳だ。丸山は、哲学が本来諸科学を関連づけ基礎づけることを任務とするものなのだが、近代日本では哲学自身がタコツボ化した、とか、ヨーロッパの教会、クラブなどの別の次元で人間をつなぐ伝統的な集団や組織が日本には乏しい、といつた問題点も指摘してゐる。

二人が共通して指摘してゐるのは、学問間の交流が乏しかつたといふことなのだが、更に言へば、長い歴史の中で日本が学問の輸入国であつたといふことが大きな影響を与へてゐると思はれる。学問が国内に自生してをらず、出来上がつた学問の成果だけを摘み喰ひしてゐるので、共通の根を持たないのだ。

では、どうするか

日本にも、思想家がゐなかつた訳ではない。三枝は次のやうな人達をその例として挙げてゐる。

私は、思想家らしい思想家として、最澄空海道元中江藤樹荻生徂徠、三浦梅園、本居宣長西周福沢諭吉等が、誰よりもまず問題になると思う。ところがこれらの人々は殆んどすべて危険を冒して異種類の外国文化を日本に移植したか、それとも日本の内にあって仏教、儒教神道等の諸思想を相継いで熱心に汲んだ人々、つまり思想上の交通の多かった人々であるかである。誰でもこれらの思想家が、相寄って過去の日本文化の大いなる部分を形成したのであることに、異論はあるまいと思う。これらの思想家は、それぞれ宗教や文学や学問において、その理解の仕方と表現力の秀れている点で共通点をもっていると考えられる。すなわち思想性をもつという点で共通しているのである。もし、これらの思想家の著述を現代化することができたら、過去の日本人の文化遺産は一層豊富さを加え、光輝を加えるであろうと思う。(中公文庫版 84-85頁)

 「現代化する」といふのは、これらの思想家の著作を読み返し、現在の問題を解くための手がかりを得るといふことだらう。しかし、上に挙げられたやうな思想家の著作を直接読むことは、一般の読者には困難な場合も多い。その大きな理由の一つが、漢文だ。

例を挙げると、空海の『三教指帰』は、次のやうな姿をしてゐる。

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空海三教指帰

読み下すと、「文の起り必ず由(ゆゑ)有り。天朗かなるときは則ち象を垂れ、人感ずる時は則ち筆を含む」といつた具合だが、なかなか敷居が高い。上に示した本は1882(明治15)年に出版されてゐるのだが、当時はかうした文章を読む人たちが少なからずゐたといふことなのだらう。

かうした文章を読めるやうな教育をすべきだ、といふ意見もあるだらうが、口語文で書かれた文章で間に合ふのであれば、一般人にはその方が助かる。外国語で書かれたものであれば翻訳で、漢文は書き下しで、註を付し、専門的な予備知識なく読める日本語の本が、これからの日本人がものを考へる際の支へとして必要になる。

そのやうな知的な基盤がなければ、日本人の思索の水準が上がることは期待できないし、世界への発信も無理だらう。

思想を使ふ立場から

かうした日本の知を支へる本を著す、或いは探すといふのは、必ずしも専門的な学者の仕事ではない。むしろ、そんな一般向けの仕事をしてゐては論文も書けないので、学者に期待するのは無理だと考へるべきかも知れない。過去の思想的な遺産を自分の生き方を考へるために使ふ立場からすれば、欲しいのは、重箱の隅をつついて、過去の思想家の著作に細かな註を書くといふ仕事ではない。さうした遺産を自分で読むために役立つやうな道しるべだ。

思想が本当に生きたものとして伝へられるためには、「名作を5分で読む」といふ類の本は役に立たない。思想家本人の息づかひが感じられるやう、思想家自身が書いた文章を読む必要がある。

そんな作業を自分でもやつてみたいと思ふ。

 

 

『旧約聖書』の読み方(承前)

第3回は「雅歌は最初のエロティックな詩か」といふ題で、Olivier Abel氏が話をした。「雅歌」は旧約聖書の一章で、英訳聖書では Song of Solomon といふ題になつてゐる。文字通り読めば男女の愛の歌であり、「ねがはしきは彼その口の接吻をもて我にくちつけせんことなり 汝の愛は酒よりもまさりぬ なんぢの香膏(にほひあぶら)は其香味(かをり)たへに馨しく」といつた調子で始まる。様々な解釈がある章のやうだが、放送では、拒むことと受け入れることといふ自由の問題を扱つてゐる、とか、人は最初から二人である(あるいは神と向き合つてゐる)、とか、最初の言葉は感情を表現するものであつた、とかいふ話をしてゐた。伊邪那岐命伊邪那美命の話や『詩経』を思ひ出す。孔子は「詩三百、一言以て之を蔽へば、曰く、思ひ邪しま無し」(為政第二)と言つたが、放送では、最初にあつたのはイノセンスなのだ、と言つてゐた。他方で、契約といふ行為の基礎には結婚の契約があり、結びつきは自由なもので変はり得るのだ、といふ話は、西洋的な考へ方だと感じた。

第4回は「ヨセフとモーゼ、どう共存するか」といふ題で、Thomas Römerといふ人が話をした。聖書は旅立ちと亡命の物語であり、他者と共存するといふことが常に問題となる。住み続けるか旅立つかを問ひ続ける生き方でもある。ユダヤ人は長い間流離ふ民であつた。どこまで現地と同化するかといふのは、人々の動きが激しくなつた現代では大きな問題となつてゐるが、ユダヤ人にとつては歴史と共にある問題なのだと感じた。さうした歴史の中で、ユダヤ人が民族としての同一性を保ち得たといふのは(実際には様々なユダヤ人がゐるのであらうが)、驚くべきことだ。戒律を守ることが、その要となつてゐたのだらうと思はれる。

他方で、第1回では、聖書では解釈が重要であり、イサクの犠牲の話でも、文字通りに解釈すると神の為には我が子でも殺すといふ狂信的な話になるが、それを抑へるために様々な工夫が重ねられて来たといふ印象を持つた。さうした柔軟な解釈は、共存せざるを得ない状況に長く置かれてゐたことと無縁ではないといふ気がする。

さて、日本人はどうやつて同一性を保つのか。そもそも、日本人の同一性などあるのか。

『旧約聖書』の読み方

France Cultureのラジオ番組Chemin de la philosophie(哲学への道)で、先週は『旧約聖書』に関する4つのテーマを放送してゐた。『旧約聖書』についての知識を殆ど持たない身には興味深い話ばかりだつたので、メモして置く。

第1回は「アブラハムと犠牲、神と交渉できるか」といふ題で、Delphine Horvilleur氏が話をした。フランスで三番目?の女性ラビだといふ人。

神との交渉といふのは、「創世記」第十八章に出て来る話で、神がソドムの街を滅ぼさうとした時、アブラハムが「善人も悪人も一緒に滅ぼされるのか、もし街に五十人の善人がゐたとすれば、その五十人に免じて街を許されないのか」と問ふところから始まる。神は、五十人の善人がゐれば全て許さうと応へるのだが、アブラハムは更に、「もし五十人が五人欠けたら、五人が欠けたことで全ての街を滅ぼされるのか」といつた調子で神との交渉を続け、つひには十人の善人がゐれば街を許すところまで神に認めさせる。Horvilleur氏は、この交渉の際にアブラハムは立つてゐたことを指摘してゐた。神の前に立つてゐたアブラハムは、近寄つて上記の交渉を始めるのだ。ユダヤ教では神の前にひれ伏して祈るのではなく、立つて祈るのださうだ。

アブラハムはいつでも神に逆らつてゐるのではない。老いた妻(90歳!)との間にやつと生まれた子イサクを捧げよと言はれた際には、言葉の通りに祭壇で我が子を殺さうとする。「創世記」第二十二章のこの場面は、解釈が重要だと言ふ。Horvilleur氏によれば、ラビの学校では、先づ、聖書を文字通りに読むといふのは間違ひだと教へられるのださうだ。そもそも聖書は多様な解釈ができる言葉で書かれてゐる。イサクを犠牲に捧げよといふ神の言葉も、「高きに登らせよ」といふものであり、アブラハムのやうに犠牲に捧げるといふ意味に取れる言葉だが、イサクの独立を促すものとも取れるやうだ。これに関連して注目すべきなのは、イサクの代はりにアブラハムが捧げるのは、通常の子羊ではなく、藪に角をひつかけてゐた牡羊だといふ点だと言ふ。神の使ひがアブラハムの名を二度呼ぶのも重要で、二度目に呼ばれるアブラハムはそれまでとは違ふ新しいアブラハムであると解釈される。

聖書には様々な解釈が可能であることに関連して、ヘブライ語では「顔」といふ言葉は複数しかない、といふ話も面白かつた。表情は多様なものであることが前提となつてをり、一つの表情に固まつたのが偶像であり、仮面の神なのださうだ。

また、第十八章の冒頭で、アブラハムが三人の客を迎へる場面では、神が現れてゐるのだが、それを差し置いてアブラハムは客を迎へてゐる。これは三人が神の使ひだから、といふ解釈もできるが、砂漠のやうな厳しい環境では、客を歓待することが重要であることを示すとも言ふ。迎へてゐる場所がテントであることから分かるやうに、アブラハム自身も旅路にあるのだ。アブラハムは、ユダヤ教キリスト教イスラム教で父祖とされる人物だが、神のお告げに従つて、父親の家を出た人物である。ヘブライとは渡る人といふ意味でさうだ。アブラハムは、親の地を離れ約束の地を求めて、過去の自分を離れ新しい自分を求めて、常に途上にあるのだ。常に自分は異国にゐると感じる人だからこそ、客を迎へることができるのだ。

第2回の題は「アダムとイブは一人だつたのか」で、Catherine Chalierといふ人が話をしてゐる。よく分からないところが多かつたのだが、確かに「創世記」第1章では男と女は同時に作られたと書かれてゐる。よく知られたアダムの肋骨からイブが作られたといふ話は、第2章にある。両者の関係をどう解釈するか、といふ点はよく分からなかつたが、神による世界の創造は全て言葉による、創造は昼と夜、空と海のやうに世界を分けることから始まる、動物や植物は種として作られたが人は単一である、など興味深い指摘があつた。(続く)

 

山崎正和(1934-2020)

山崎正和氏が亡くなつた。

鼎談書評

山崎氏を知つたのは、1980年代前半に文藝春秋に連載されてゐた「鼎談書評」といふ記事だつた。丸谷才一(1925-2012)、木村尚三郎(1930-2006)、山崎正和の三人が、それぞれの推薦図書を持ち寄つて、意見を交はすといふ趣向の記事で、三人の機知に富むやり取りに感じ入りながら読んだ。紹介されてゐる本で、面白さうなのは何冊か買つて読んだりした。この鼎談は、後に出版されてゐて、山崎氏の前書きをネットで読むことができる。

この他にも、丸谷才一との対談が数多く本になつてゐる。『日本史を読む』といふ本では、名前に「仁」がつかない天皇は誰でその理由は何か、とか、フロイスキリスト教布教の一番の強敵は法華宗だと言つた、とか、本居宣長山東京伝を読んでゐたかもしれない、とか、津田梅子の伊藤博文について文章は面白い、とか、とにかく情報量が多い。クイズ番組に出さうな話題が並んでゐると見ることもできるが、それが単なる知識ではなく、大きな世界観の中で生かされてゐる点が立派だと思ふ。さうした知識は本から得たものなのだし、『電子立国 日本の自叙伝』のやうにこちらに多少の予備知識がある本だと、多少あやふやな部分が無くはないのが分かるのだが、知的な刺激に充ちてゐることは間違ひない。

 

『鷗外 闘う家長』

訃報を目にして、1972(昭和47)年に出版された鷗外論を読み返してみたが、いろいろと教へられることがあつた。鷗外は学生のころから好きな作家で、他方、漱石にはどうも馴染めなかつたのだが、その理由が分かつたやうな気がした。

いわば彼の生涯の文学的な主題は、あの「自我の陰画」すら成立しない、内面の完全な空白そのものを凝視することであったといえる。その不安が、あるときは彼を痙攣的な自己表現に駆り立て、またあるときは極端な自己抑制に誘うこともあったが、しかし結局はそのどちらにも安住できず、彼は最後まで自我の手ごたえを求めて終りのない彷徨をつづける作家となった。

そしてそのことによって、彼は日本の近代文学史のなかでは例外的な作家となり、令名のみ高くて真に理解されることの少ない文学者となった。けれども、眼を転じて広く日本人の精神史全体という枠組で考えると、鷗外はけっして異様な例外者でもなければ、少数者の代表ですらない。たしかに彼が生まれあわせた時代は歴史的に稀有の時代であり、そのことが彼の生き方をいやがうえにも特徴的なものにしたことは疑いない。しかし、さらに踏みこんで彼の家庭環境や生理的な体質にまで目を向けると、それを背負った鷗外の人生態度は、むしろ日本の近代人のもうひとつの典型であったことが理解されるはずである。それがのちの文学作品によって描かれることが少なかったということは、日本の近代文学そのものにとっての不幸であったかもしれないのである。

新潮文庫版 77-78頁。ゴチックは原文では傍点)

鷗外が視覚の人であつたとか、家族が彼をどのやうに見てゐたかなど、興味深い指摘は、挙げれば切りがない。

1980年代の転換期

 山崎氏は1980年代半ばに『柔らかい個人主義の誕生』といふ本を書いてゐる。今にして思へば、1980年代は日本の大きな転換期だつた。貿易黒字が国際的な問題となり、「ものづくり」の国から、どう転換するかが課題だつた。国際競争力の低下を甘受しても労働条件を改善し、労働分配率を上げて国内消費の拡大を図るといふのが、貿易黒字対策としても、少子化対策としても、正しい道であつたやうに思はれるのだが、現実には金融緩和がバブルを生む結果となつた。

企業を中心とした日本人の生活、企業に尽くす態度は、共同体としての村が崩壊し、敗戦で物資が不足してゐた時代には合理的なものであり、仕方ないものでもあつたが、長続きする体制ではなかつた。男は外に出て「企業戦士」として戦ひ、女は家庭を守るといふのは、戦時中の頭をそのまま戦後に持ち込んだ考へ方で、それが女性に大きな負担を強ひることとなり、その反動として少子化が出て来たのではないだらうか。

山崎氏の著書は、さうした転換の指導的な思想を示すものだつたのかも知れない。山崎氏は政府の審議会などにも数多く参加してゐたが、どのやうな意見を述べ、それが政策に反映されたのかどうかなどは、寡聞にして知らない。

いづれにしても、博識で洒落も分かる立派な大人がまた一人、旅立たれた。

ご冥福をお祈りする。

 

丸山眞男『福沢諭吉の哲学』

丸山眞男*1(1914-1996)は福沢諭吉(1835-1901)の哲学に関して、「福沢に於ける「実学」の転回」、「福沢諭吉の哲学」といふ二つの論文を書いてゐる。岩波文庫に収められたこれらの文章を読みながら、思ひついたことを書き留めておく。

「福沢に於ける「実学」の転回」 -福沢諭吉の哲学研究序説-

丸山眞男は「哲学」といふ言葉をどう捉へてゐたのか。

もとより福沢は狭義の哲学者ではないから、彼の認識論なり価値論なりをそれ自身としてはどこにも提示してはいない。しかし彼の諸著作を仔細に読むと、そこに一貫してある共通の物の見方、価値づけ方が感知されるのである。そうして、それは他の同時代の啓蒙思想家たちと決して単純に同視しえない、きわめて特徴のあるものである。...とくに強調したいのは、そうした福沢の「哲学」こそ、彼の掲げた独立自尊の精神を根底から基礎づけていることである。福沢の自由の精神をこの基礎まで掘り下げることによって、彼の問題意識が一般に考えられているよりはるかに深奥なものであった事が理解せられるし、同時に福沢の提出した問題の現代的意義が愈々切実に我々に迫って来るのである。(岩波文庫38-39頁)

哲学とは、物の見方である認識論と価値づけ方としての価値論が主なものであり、それが人の(この場合は福沢の)精神の基盤となつてゐる、と考へられてゐることが分かる。

丸山によれば、福沢は単に「実学」を尊重したのではない。実学を尊重し、実践的必要から切り離された理論的完結性に対して無関心なのは、むしろ伝統的な日本の特徴だとされるからだ。

福沢の実学に於ける真の革命的転回は、実は、学問と生活との結合、学問の実用性の主張自体にあるのではなく、むしろ学問と生活とがいかなる仕方で結びつけられるかという点に問題の核心が存する。そうしてその結びつきかたの根本的な転回は、そこでの「学問」の本質構造の変化に起因しているのである。(同44頁。ゴチックは原文では傍点で以下同じ)

福沢は「東洋になきものは、有形に於て数理学*2と、無形に於て独立心と此二点である」と言つたが、

物理学を学問の原型に置いたことは、「倫理」と「精神」の軽視ではなくして、逆に、新たなる倫理と精神の確立の前提なのである。彼の関心を惹いたのは、自然科学それ自体乃至その齎した諸結果よりもむしろ、根本的には近代的自然科学を産み出す様な人間精神の在り方であった。その同じ人間精神がまさに近代的な倫理なり政治なり経済なり芸術なりの基底に流れているのである。(同47頁)

丸山は、江戸時代まで*3の学問では、「自然が倫理価値と離れ難く結びついて居り、自然現象のなかに絶えず倫理的な価値判断が持ち込まれるという点」が問題であることを宋学などの例を挙げて示してから、次のやうに論を進める。

福沢が「物ありて然る後に倫あるなり、倫ありて然る後に物を生ずるに非ず。臆断を以て先づ物の倫を説き、其倫に由て物理を害する勿れ」文明論之概略、巻之一)と断じたとき、それが思想史的に如何に画期的な意味を持っていたかということは、以上の簡単な叙述からも理解されるであろう。彼は社会秩序の先天性を払拭し去ることによって「物理」の客観的独立性を確保したのであった。(同53頁)

ニュートン力学に結晶した近代自然科学のめざましい勃興は、デカルト以後の強烈な主体的理性の覚醒によって裏うちされていたのである。それはデューイがいう様に、理論的に自然に服従することによって実践的に自然を駆使するところの逞しい行動的精神であった。

この近代理性の行動的性格を端的に表現するのが、いわゆる実験精神である。近代的な「窮理」を中世的なそれから分つものはまさにこの実験である。理性は単に本質を観想するにとどまらずして、実験を通じて自然を主体的に再構成しつつ、無限に新領域へ前進していく。...福沢はこの実験的精神を単に自然科学の領域だけでなく、政治、社会、等の人文領域にまで徹底して適用したのである。(同54-55頁)

従って又福沢の実学は卑俗な日常生活のルーティンに固着する態度とは全く反対に、そうした日常性を克服して、知られざる未来をきり開いて行くところの想像力によってたえず培わるべきものであった。だから逆説的にいえば、アンシャン・レジームの学問がなにより斥けるところの「空理」への不断の前進こそが、生活の学問とのヨリ高度の結合を保証すると考えられたのである。(同58頁)

 近代理性の逞しい行動的精神、実験精神こそ、福沢が日本に欠けてゐると考へたものだといふ訳だ。

「福沢に於ける「実学」の転回」は、最後に興味深い論点を示して締めくくられてゐる。それは、西洋では「機械的自然は人間の主体性の象徴たることから転じてやがて人間を呑みつくすところの不気味なメカニズムとして映ずる様にな」り、堪えきれなくなつて人は「ラスキンの浪漫主義やトルストイの田園賛美の懐に逃げ込」むこととなつたが、福沢がかうした科学主義に内在する問題にどのやうに対したか、といふ問ひだ。

丸山は「凡そ人たるものは理と情との二つの働に支配せられて、然かも其情の力は至極強大にして理の働を自由ならしめざるの場合多く」「左れば斯る人情の世界に居ながら、唯一向に数理に依て身を立て世を渡らんとするは甚だ殺風景にして、迚(とて)も人間の実際に行はれ難」い、といつた福沢の言葉を引用しながら、福沢の一見妥協的とも見える態度の裏に、「原則」があることを示唆する。

ひたすら数理に依拠する生活態度に対し、「殺風景」という感覚を持つという事自体、既に彼が単純な抽象的合理主義の立場を超えている事を示していないだろうか。若しそうなら、上の様な現実的態度は決して単なる妥協ではなくして、彼の「原則」のなかに位置を占めねばならない。それでは非合理的現実の承認は、他方に於ける物理学主義とは一体どの様な牽連を持つのか。それは嘗ての心学的な現実主義といかに区別されるか。福沢が最後まで科学的決定論の陰惨な泥沼に陥らなかった事も、どうやらこの問題に関係がありそうである。ここに我々は漸く彼の「哲学」の内奥に足を踏み入れたわけである。本稿の目的はこの戸口にまで道をつける事にあった。問題の核心については、筆を改めて論じたいと思う。(同64頁)

福沢諭吉の哲学 -とくにその時事批判との関連-

この論文には「まえおき」があつて、その中にはかう書かれてゐる。

第一に、本稿の意図は福沢の多方面にわたる言論著作を通じてその基底に一貫して流れている思惟方法と価値意識を探り出し、それが彼の政治・経済・社会等各領域の具体的問題に対する態度と批判の方向をいかに決定しているかということを究明するにある。(同66頁)

 哲学とは、「基底に一貫して流れている思惟方法と価値意識」を指す訳だ。この哲学は、明示的に示されてゐるとは限らない。

とくに福沢の様にその方法論なり認識論なりを抽象的な形で提示することのきわめてまれな思想家の場合には、その意識的な主張だけでなく、しばしば彼の無意識の世界にまで踏み入って、暗々裡に彼が前提している価値構造を明るみに持ち来さねばならない。(同67頁)

かうした「哲学」は、学校で教へてゐるやうな類のものではないだらう。だとすれば、それをどのやうに身に付けるのか、といふ疑問が湧くが、先を読んでみよう。

丸山は先づ『文明論之概略』の冒頭の文章に注目し、次のやうに述べる。

まずこのテーゼの意味するところを最も広く解するならば価値判断の相対性の主張ということに帰するであろう。福沢によれば物事の善悪とか真偽とか美醜とか軽重とかいう価値判断はそれ自体孤立して絶対的に下しうるものではなく、必ずや他の物との関連において比較的にのみ決定される。我々の前に具体的に与えられているのは、決して究極的な真理や絶対的な善ではなく、ヨリ善きものとヨリ悪しきものとの間、ヨリ重要なるものと、ヨリ重要ならざるものとの間、ヨリ是なるものとヨリ非なるものとの間の選択であり、我々の行為はそうした不断の比較考量の上に成り立っている。従ってまた、そうした価値は何か事物に内在する固定的な性質として考えらるべきではなく、むしろ、事物の置かれた具体的環境に応じ、それがもたらす実践的な効果との関連においてはじめて確定されねばならぬ。(同71頁)

丸山は、『学問のすゝめ』からも「時代と場所という situation を離れて価値決定はなしえないとい命題に帰着する」と考へられる文章を引いて、これが福沢の考へ方の「根本主題」を成してゐることを示しながら、次のやうに指摘する

従って、目的が状況に応じて推移すれば同じ事物に対する彼の価値判断も当然変化せざるをえない。このことを無視して、背後の具体的状況から切断された言説のみを問題にするならば福沢のなかから幾多の奇怪な矛盾を拾い出して来ることはきわめて易々たることである。(同74頁)

この根本主題に基づけば、

福沢が一生その先達を以て自他ともに許したヨーロッパ近代文明は決してそれ自身絶対的な目的乃至理念ではなかった。近代文明の妥当性は福沢において上下二つの括弧によって相対化せられていた。まず第一にはヨーロッパ文明の採用はつねに日本の対外的独立の確保という当面の目標によって制約せられる。...しかし第二に、ヨーロッパ近代文明は、文明の現在までの最高の発展段階であるという歴史性によって限定せられる。...ヨーロッパ文明も半開に対して僅に文明というのであって、決して之を以て至善至美と看做すべきものではない、やがて文明の一層の進歩(それが具体的に何を意味するかは後に述べる)は現在の西欧文明を以て野蛮と看做す時期が来よう。(同76-77頁)

といふことになる。また、『文明論之概略』では日本の国家的独立が基本的な目標とされてゐたのだが、

ヨーロッパ文明論と並ぶもう一方のテーゼとしての日本の国家的独立という事もまた福沢にとっては、条件的な命題であることを看過してはならない。国の独立が目的で文明は手段だと福沢がいうとき、それはどこまでも当時の歴史的状況によって規定せられた当面の目標を出でないのであって、一般的抽象的に、文明はつねに国家的存立乃至発展のための手段的価値しかなく、国家を離れて独自の存在意義は持たぬという立場を取ったのでは決してない。(同79頁)

 かうした「事物の価値を事物に内在した性質とせずして、つねにその具体的環境への機能性によって決定して行く」福沢の態度は、プラグマティズムに近いとされる。

プラグマティズムはデュウィのいう様に、近代自然科学を産んだルネッサンスの実験的精神の直接的継承者であり、十九世紀中葉以降、機械的決定論の泥沼のなかに埋没した科学主義をばベーコンの伝統への復帰によって主体的行動的精神と再婚させようとする意味を持っている。(同82頁)

この「主体的行動精神」が、状況に応じて変はる価値判断を支へる力なのだ。

かくして福沢の場合、価値判断の相対性の強調は、人間精神の主体的能動性の尊重とコロラリーをなしている。いいかえれば価値をアプリオリに固定したものと考えずに、是を具体的状況に応じて絶えず流動化し、相対化するということは強靭な主体的精神にしてはじめてよくしうる所である。それは個別的状況に対して一々状況判断を行い、それに応じて一定の命題乃至行動基準を定立しつつ、しかもつねにその特殊的パースペクティヴに溺れることなく、一歩高所に立って新しき状況の形成にいつでも対応しうる精神的余裕を保留していなければならない。(同83-84頁)

この力を失ふと、福沢の言ふ「惑溺」の現象が現れる。この「人間精神の懶惰」は、杓子定規な対応を、あるいは逆に場当たり的な対応を生む。

従って公式主義と機会主義とは一見相反するごとくにして実は同じ「惑溺」の異った表現様式にほかならない。かくして、福沢をして「無理無則」の機会主義を斥けさせた精神態度が同時に、彼を、抽象的公式主義への挑戦に駆り立てるのである。(同84頁)

 かうした精神的な態度を決めるのは、個人の性格や国民性ではなく、社会の在り方だ。

この様に、固定的価値基準への依存が「惑溺」の深さに、之に対して、価値判断を不断に流動化する心構えが主体性の強さ(福沢はそれを「独立の気象」と呼んだ)に夫々比例するとしても、そうした人間精神の在り方は福沢において決して単に個人的な素質や、国民性の問題ではなくして、時代時代における社会的雰囲気(福沢の言葉でいえば「気風」)に帰せられるべき問題であった。換言すれば、固定した閉鎖的な社会関係に置かれた意識は自から「惑溺」に陥り、動態的な、また開放的な社会関係にはぐくまれた精神は自から捉われざる闊達さを帯びる。(同86頁)

この開放的な社会を築くことこそ、福沢にとつての文明であつた。

しかし福沢において人類の進歩とはまさしく前者の型より後者への無限の推移のうちに存する。いま一度いうならば、それは社会関係の固定性がますます破れ、人間の交渉様式がますます多様になり、状況の変化がますます速やかになり、それと同時に価値基準の固定性が失われてパースペクティヴがますます多元的となり、従ってそれら多元的価値の間に善悪軽重の判断を下すことがますます困難となり、知性の試行錯誤による活動がますます積極的に要求され、社会的価値の、権力による独占がますます分散して行く過程にほかならぬ。(同89-90頁)

この考へ方から、「単一の説を守れば、其説の性質は仮令ひ純精善良なるも、之に由て決して自由の気を生ず可らず。自由の気風は唯多事争論の間に在て存するものと知る可し」といふ自由観が出て来る。

丸山はこれまでの議論を下のやうな表に整理してゐる。

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丸山は、さらに、歴史的発展を根本的に推進させる契機に関する福沢の考へについて述べる。

社会的交通(人間交際)の頻繁化こそが爾余の一切の変化の原動力にほかならない。かくて、近代西洋文明の優越の基礎も究極においては、この交通形態の発展に基くということになる。「西洋諸国の文明開化は徳教にも在らず、文学にも在らず、又理論にも在らざるなり。然ば即ち之を何処に求めて可ならん。余を以て之を見れば其人民交通の便に在りと云はざるを得ず」(民情一新)(同102-103頁)

最後に、丸山は福沢の「人生全体の意義に対する終局的な「問い」とそれへの「安心」観」について触れてゐる。それは次のやうなものである。

「既に世界に生れ出たる上は、蛆虫ながらも相応の覚悟なきを得ず。即ち其覚悟とは何ぞや。人生本来戯れと知りながら此一場の戯を戯とせずして恰も真面目に勤め...るこそ蛆虫の本分なれ。否な蛆虫の事に非ず、万物の霊として人間の独り誇る所のものなり」(福翁百話)(同110頁)

「浮世を軽く認めて人間万事を一時の戯と視做し、其戯を本気に勤めて怠らず、啻(ただ)に怠らざるのみか、真実熱心の極に達しながら、扨(さて)万一の時に臨んでは本来唯是れ浮世の戯なりと悟り、熱心忽ち冷却して方向を一転し、更に第二の戯を戯る可し。之を人生大自在の安心法と称す」(同上)

 かうした福沢の態度について、丸山は次のやうな判断を下して文章を締め括つてゐる。

遊戯とはジンメルも述べている様に人間活動からそのあらゆる実体性を捨象して之を形式化するところに成立つところの、最も純粋な意味でのフィクションである。そうしてフィクションこそは神も自然も借りない全く人間の産物である。福沢は人生の全体を「恰も」といふ括弧につつみ、是をフィクションに見立てたことによって自ら意識すると否とを問わずヒューマニズムの論理をぎりぎりの限界まで押しつめたのであった。(同112頁)

今日の問題との係り

上に幾つか抜き書きしたやうな丸山眞男福沢諭吉の哲学観は、基本的に正鵠を射てゐるやうに思はれるので、ここでは、その正否について論じるのではなく、上記のやうな福沢諭吉の考へ方が、今の日本や世界が抱へてゐる問題について、どのやうな観点を提供して呉れるか、といふ立場から思ひつくことを書き留めておく。

ちなみに、丸山が上の二つの論文を書いたのは1947年で、

 今次の惨憺たる敗戦によって、日本の維新以来歩み来ったいわゆる「近代化」の道程がいかに歪曲されたものであったかが白日の下に曝され、ひとびとが近代的自由を初歩から改めて学び取ることの必要を痛切に意識するに及んで、福沢諭吉はさきごろまでの汚名であった自由主義者乃至個人主義功利主義者という資格に於て、いままた舞台に呼び戻されようとするかの如くである。(同37頁)

といふ時代だつた。さうしたお手軽な福沢観に対する反発として書かれた文章だと言へるだらう。いづれにしても、背景にあるのは、「惨憺たる敗戦」といふ日本の状況だつた。

 日本の衰退の説明

敗戦から75年、現在の日本は新たな「敗戦」を迎へることとなつた。1980年代における日本の経済的な地位は、"Japan As Number One"などといふ題の本が出たり、日本の地価総額が米国のそれを上回つたり、などといふ今では考へられないほど高いものだつた。それが、バブル崩壊以降、30年もの間、低迷から抜け出せないでゐる。その大きな原因は、世の中が変化してゐるにも拘はらず、日本社会の仕組みが変はらなかつたことだ、と言へるだらう。高度成長の成功で「惑溺」に陥つてゐたのだ。

終身雇用制、年功序列などの仕組みや、自社内の技術で全てを賄はうとする姿勢は、国内需要を基盤として、人口が増え経済が拡大する局面には適したゐたのだが、経済がグローバル化し、人口が停滞する局面では、最適な戦略ではなくなつた。しかしながら、バブルの崩壊で莫大なキャピタルロスが生まれ、経営者が守りに入つたため、戦略の変更ができなかつた。

もし日本人が「惑溺」に陥りやすい傾向があるとすれば、村や会社などの組織への精神的な依存度が高く、「独立の気象」が乏しい点がその原因として挙げられるだらう。自分の判断よりも組織の判断を優先する。しかし、組織は判断などしない。新しい意見は常に個人から生まれるのだから。その結果、空気に流されて変革が遅れる。

福沢諭吉明治維新前後に見た「惑溺」といふ日本の病弊は、太平洋戦争、バブル敗戦といふ形で繰り返し姿を現してゐるやうに見える。

 インターネットとポピュリズム

しかし、問題は日本だけに限らない。最近の先進国におけるポピュリズムの台頭、フェイク・ニューズの氾濫を見てゐると、福沢が理想とする「人民交通の便」が極端に進んだことにより、多様な価値判断に耐え得る強靭な主体的精神が成り立たなくなつてゐるのではないか、といふ疑念が生ずる。世の中が複雑になり過ぎて、その構造が誰の眼にもはつきりとは見えなくなつてゐるのではないか。

さうした状況で、個人が「知性の試行錯誤」を繰り返しても、世界について何か整理された考へにたどり着くことは難しい。それにも関はらず、見たことのない国々での出来事が私達の生活に影響を与へる。世界に保護主義的な傾向が出てゐることも、かうした個人の知的能力を超えた世界の複雑化が一因ではないかと思はれる。

人民交通の便が発達することは良い事だらうが、同時に、丸山が整理した表の言葉で言へば社会の「対立による統一」といふ多元的な価値を容認する世界の在り方を示すことが急務になつてゐる。

 認識論として

その関連で、福沢諭吉プラグマティズム的な認識論を持つてゐた、といふのは興味深い。絶対的な真理の探究を目指す西洋流の哲学が政治的独裁や狂信的なテロリズムの源になつてゐると思はれるからだ。

そもそも、事物の本質とか内在的価値とかいつた考へ方は、プラトンイデア論や創造神といふ西洋の伝統的な物の見方から出てゐると言へるだらう。「◯◯とは何か」といふ問ひ方が、さうした物の見方の典型である。全知全能の神が全てを目的をもつて創つたのであれば、全ての物には本来の姿、あるべき姿としての本質が備はつてゐると考へることは自然だらう。しかし、さうした創造神がゐない、或いは、私達にはその意図を知ることができないのだとすれば、(人間が作り出したものを除いて)事物についてその本質を考へることは無意味だと言ふべきだらう。

かうした立場からすれば、全ての知識は暫定的であり、文脈に依存したものとなる。絶対的な真理の典型だと思はれてゐた自然科学分野でも、量子力学の登場によつて実験条件と実験結果とを分離して考へることができなくなつてゐる。この世界では、主体から完全に分離された「客観的」な事実は、存在しないのだ。

しかし、それは事実が存在しない、といふことではない。ただ、人が知り得た事実は、過去の人達が積み上げて来た努力の成果であり、さうした背景を無視して事実を語ることはできない、といふことだ。そして、事実を見極めるための社会的な仕組みの維持・強化が、今後の重要な課題であるといふことだ。

古典としての福沢諭吉

丸山眞男福沢諭吉を重んじてゐたことは良く知られてゐるが、丸山とは立場を異にする小林秀雄(1902-1983)も、芸術家をのぞけば、明治以降に活躍した日本人で最も詳しく論じてゐるのは福沢諭吉なのだ。ともかく、福沢諭吉は今読んでも、非常に面白い。まさに日本の古典だと言ふべきだらう。

 

*1:このブログでは「歴史的人物」と認められる人には敬称を付けないことを基本的な方針にしてゐる。

*2:丸山が文章の中で述べてゐるやうに、物理学を指す。

*3:丸山は「アンシャン・レジーム」と呼んでゐるが、大まかに江戸時代までを指すと考へて良いだらう。