日本語の現状

文藝春秋』六月号に、「「KY」が日本語なんて・・・」と題して、大野晋丸谷才一井上ひさし三氏による「言葉をめぐる憂国鼎談」が載つてゐる。オバマ候補と比べながら今の日本の政治家の語る力の無さを叱り、カタカナ言葉の濫用やお笑ひタレントの隆盛を嘆き、国語教育の大切さを語るといふ調子で展開されるのだが、末尾近くに大野氏の次の発言がある。

 

丸谷さんの見方もわかりますが、どうしても僕は楽観的になれません。今の日本人が、どこかで物事をきちんと見ることを覚えない限り、明るい光はさしてこないでしょう。それが一番初歩的なことであり、一番大切なことですから。最近の日本を見ていると、八十八歳まで生きてきて、少し長生きをしすぎたと感じることもあります。

 

それを丸谷氏が「いや、大野先生は八十八歳まで生きてからこそ、あれだけ立派な研究ができた。」云々と元気付けようとするのだが、老いた碩学の絶望は深く、読む方の心も沈む思ひがする。

 

だが、大野氏は、落ち込んでばかりゐるやうな人ではない。十二日付の朝日新聞夕刊を読むと、今は、約三千の古語の語源や変遷をたどる『古典基礎語辞典』の編集に打ち込んでをられるらしい。氏の日本語に寄せる思ひの強さには頭が下がる。

 

しかし、何故、日本人には「物事をきちんと見ること」ができてゐないのか。見るといふのは、単に網膜に像が映れば自動的に物が見える、といふ簡単な問題ではない。世界をどのやうに切り取り、整理するかといふ身体と文化を背景とした、主体的な行為なのである。それがうまくできないといふのは、上記の鼎談で井上氏も指摘してゐる様に、今の日本人の身体が衰へ、文化の基軸が見失はれてゐるからに他ならない。

 

身体能力の低下は、最近の子供を見れば明らかだ。塾やお稽古事に追はれ、遊びはテレビゲームといふのでは、無理もない。文化も、何が基軸なのだが訳が分からない。言葉を換へれば、古典が失はれたといふことだ。日本語で書かれた文章を読み、それが人生の糧になるといふ経験を持たなければ、日本語の有難さを感じることはあるまい。さうした文章はどこにあるのか。

 

かつては、中国の古典がさうした役割の大きな部分を担つてゐた。明治維新や敗戦で、さうした基盤が消え去り、代はりに欧米の文化が入つてきたが、日本人の心の支へになつてゐるとは言ひ難い。要するに、何もないのだ。いや、さうした文章は、数は多くないとしても、確かにある。小林秀雄が、少数ながら熱心な読者を持つてゐるのは、彼の書くものが、さうした人生の指針を与へるものとして読まれてゐるからだらう。福沢諭吉が百年以上前に書いた書物も、今日の日本を考へるのに有効な枠組みを提供する。

 

今の若者たちが、マンガやドラマ、安手の「人生論」で済ませてゐるのは、本物に接した経験がなく、それを消化する力が足らないからだ。さらに言へば、彼らの親の世代(それは私の世代なのだが)の人間が、すでにマンガを読みながら育ち、深く物事を考へないまま大人になり、親になつてをり、さらに一世代遡れば、今の若者の祖父母は、敗戦の文化的混迷の中で育つた人たちなのである。

 

ある意味では、それで済むほど、戦後の日本といふのは平和で幸せな国だつたのだらう。しかし、今や、さうした恵まれたな時代は去つた。日本人の、日本語の力が問はれるのは、これからである。