小泉信三の想ひ

文藝春秋八月号は、「皇太子、雅子妃への手紙-批判の嵐の中で」といふ特集で、何人かの「手紙」を載せてゐるが、保坂正康氏のものは「小泉信三の覚悟と想い」といふ題で、小泉信三が今上陛下の皇太子時代に差し上げた講義の覚書を紹介してゐる。以下は、その一部。

 

 近世の歴史を顧るに、戦争があつて勝敗が決すると、多くの場合、敗戦国に於ては民心が王室をはなれ、或は怨み、君主制がそこに終りを告げるのが通則であります。(中略)ひとり日本は例外をなし、悲むべき敗戦にも拘らず、民心は皇室をはなれぬのみか、或意味に於ては皇室と人民とは却て相近づき相親しむに至つたといふことは、これは殿下に於て特と御考へにならねばならぬことであると存じます。

 

 若しも日本の敗戦に際して日本の君主制といふものがそれと共に崩れるといふが如きことがありましたならば、日本は収拾すべからざる混乱と動揺とに陥つたであらうと思ひます。幸ひにもその事なくして、宛もアメリカ人が国旗を見て粛然として容を正すやうに日本人民が皇室を仰いで襟を正し茲に心の喜びと和やかさとの泉源を感じて、国民的統合を全うすることを得たのは、日本の為に大なる幸福としなければなりませぬ。

 

かうした確とした歴史観を持つてゐるところ、小泉信三といふ人は吉田茂が見込んだだけのことはあると思はせる。文章も、昨今のものとは品格が違ふ。また、
 私どもが天皇制の護持といふことをいふのは皇室の御為めに申すのではなくて、日本といふ国の為めに申すのであります。
とはつきり皇太子に申し上げるところも、立派だ。

 

この講義メモは昭和二十五年四月廿四日付で、当時、皇太子は16歳。
殿下の御勉強とは修養とは日本の明日の国運を左右するものと御承知ありたし。
といふ言葉を、どのやうな思ひで聞いてをられたか。

 

昭和天皇狩野直喜が御進講申し上げたときの草案が『御進講録』といふ本になつてみすず書房から出てゐる。これは、戦前のことでもあり、つぎのやうに始まる。

今年新春の
講書始に、臣直喜淺学菲才の身を以ちまして、漢書進講の
大命を拜し、誠に恐懼感激に任へませぬ次第で御座ります。さてが今日謹みて進講し奉りまするは、
尚書堯典の起首の第一節、および第二節で御座ります。

 

かうした文章を読んでゐると、皇室が我が国の文化の核としての役割を担つて来たことが感じられる。なほ、上の文の二行目の「臣直喜」と三行目の「臣」は、他よりも小さな活字が使はれてゐる。