ベルクソンの手紙

ベルクソンの書簡集を、少しづつ読み進めてゐる。「忙しいので、夕食の招待には応じられない」といつた日常的な手紙も多いのだが、思つてゐた以上に楽しめる。ベルクソンが極めて筆まめな人であつたことが分かる。

 

興味を引かれる点の一つは、翻訳に関するこだはりの強さだ。それは、自分の著作に限らない。例へば、ウィリアム・ジェームスの著作の仏訳に序文を頼まれ、何度かやりとりをした後に、断つてゐる。それも、かなりはつきりとした口調で (11 juillet 1905, Bergson à Fr. Abausit)。ジェームズ自身は、 この翻訳に満足してゐたらしいのだが。

 

Après plusieurs jours de réflexion et d'hésitation, je trouve qu'il m'est décidément impossible d'écrire une préface à votre traduction du livre de James. Plus j'ai avancé dans la lecture de cette traduction, plus je lui ai trouvé un caractère tendancieux tantôt dans un sens et tantôt dans l'autre, caractère que vous n'avez certes pas voulu lui donner, mais qu'elle devait presque nécessairement prendre dans le système de traduction que vous adoptiez.

数日間考へて迷つた末に、貴方のジェームズの本の翻訳に序文を書くことは、最終的に、私には不可能だと分かりました。この翻訳を読み進めるにつれて、そこに時にはある方向に、またある時には別の方向へと、片寄るといふ特徴が見られました。これは決して貴方が持たせようとした特徴ではないでせうが、貴方が採られた翻訳の手法では、ほぼ必然的に出て来ざるを得ないものです。

 

自分の翻訳については、時間がなくて最初の方の三分の二はざつとしか読めなかつたので、「著者による校訂」とは絶対に書かないで欲しい (21 août 1907, Bergson à Benrubi) とか、翻訳者が文章の心を読み取つてニュアンスを出すことができてゐないので、他に適当な翻訳者がゐなければ、別の機会まで出版を延期したい (3 mai 1908, Bergson à Co Macmillan) などと書いてゐる。

 

そのほか、非常に疲れてゐる (très fatigué ) といふ表現がしばしば出てくる。何ヶ月も仕事ができないといふ場合もあるので、誘ひや仕事を断るための口実ではないやうだ。

 

また、相手によつて文章の調子が違ふのも、当然ではあるが、興味深い。ウィリアム・ジェームスには、非常に丁寧な対応をとつてをり、積極的に会ひたいといふ気持ちが出てゐる手紙が多い。

 

今、1909年の3月あたりを読んでゐるが、これからが楽しみである。