貧しさと説教

アラン(1868-1951)が、1909年11月13日付のプロポで、慈善家が極貧の人達に向つてするお説教が大嫌ひだと書いてゐる。貧しい人達は、目の前の出来事で精一杯なのだ。ある種の良い行ひは、既に強ひられてをり、その他の良い行ひは、不可能なのだ。

余り厳しくはない人でも、身体くらいはきちんと洗へ、と言ふ。水はタダだらう、と。誤りだ。水を汲むのは一仕事だし、石鹸には金が掛かる。子供等を洗ふのにも時間が要る。何事もきちんとやり、先を考へなくてはならない。勿論だ。しかし、良い行ひは儲けのやうなもので、最初の元手がないと出てこない。毎日、次々と出てくる心配事を持ちながら、どうやつて先の事を考へられるのか。それは、抜け出すことのできない悪循環なのだ。だらしなさが貧しさを増し、貧しいと構はなくなる。

 
アランは続ける。

 

私は、生徒に人のあるべき姿を教へようとした女教師を知つてゐる。「皆さん、きちんとした明るい家に住むのは、どんなに楽しいことでせう。」しかし、天窓しかない屋根裏部屋にベットを三つ並べて住んでゐる一人二人の子供の眼を見て、言葉を飲み込んでしまふ。「下着は週に一度は着替へませう。」だが、あの小さな子のシャツを洗へば、糸くづになつて仕舞ふことを、教師は知つてゐる。アルコール中毒の危険を説いて、酔つ払ひの姿を子供たちに話して聞かせると、恥しさで顔を赤くする子に気づく。

どうすれば良いのか。説教はしない。できることなら、汚い子供は洗つてやる。できれば、ぼろ着の子に服を与へる。自らが、正義と善意を行ひ、子供に顔を赤らめさせない。慣れない手つきで、彼等の問題を目立たせることは避ける。自分でも知らないうちに、きちんとした服を着て素面の親を持つといふ好運に恵まれた子達の機嫌を取ることはしない。むしろ、誰にとつても同じもの、太陽や月、星、季節、数、山や川の話をして、靴下を履いてゐない子でも、自分が一市民だと感じるやうにすべきだ。学校が正義の聖堂となり、貧しい人達が軽蔑されない唯一の場所となるやうにすべきだ。

 

お説教は、金持ちのために、そして、先づ、私達自身のために取つて置かう。同じ状況に陥つて、自分は同じ事はしない、と誰が自信をもつて言へるだらうか。



かういふ話を読むと、アランの生きた時代の貧困や、彼が持つてゐた理想が想はれる。『精神と情念に関する81章』では、正義に3章が割かれてゐるが、いづれも経済的な正義について語つてゐる。