親しき仲にも礼儀あり

アラン(1868-1951)が1913年9月10日に書いたプロポを読んでみよう。

 

ブリュイエールだつたと思ふが、良い結婚といふものはあるが、甘く美(うるは)しい結婚などない、と言つた。私達人間は、これらの偽モラリスト達の沼から抜け出さねばならないだらう。彼らによれば、人が幸せを味はひ、それついて述べるのは、果物を味はひ、その良し悪しを言ふやうなものになる。しかし、私は、かう言ひたい。果物でさへ、その味を良くする手助けはできる、と。結婚や、全ての人の結びつきでは尚更(なほさら)だ。これは味はつたり、耐へ忍んだりすべきものではなく、作らねばならないものなのだ。社会は、天気や風の具合で、居心地が良く、また、悪くなる木陰とは違ふ。逆に、奇跡の場所であり、そこでは、魔法使ひが雨を降らせるし、青空を広げるのだ。
誰もが、自分の商売や将来のためには、いろいろと動く。しかし、普通、自分の家で幸せになるためには、何もしない。私は礼儀について、何度も書いて来てが、その徳の称(たゝ)へ方が足りなかつたのは確かだ。私は、礼儀が、他人向けには有用な偽善だ、とは決して言はない。感情が心からのもので、大切であればあるほど、礼儀が必要になるのだ、と言ひたい。「とつとと失せろ」と言ふ商売人は、自分の考へを言つてゐると思ふだらう。しかし、これが騒ぐ心の罠なのだ。私達が、あるがまゝに生きてゐると、現れてくるものは、どれも誤つてゐるのだ。朝、目を開けて、私に見えるものは、全て誤りだ。私の仕事は、判断し、推し量り、あれこれの物をその場所に押し戻すことだ。最初の一瞥(いちべつ)は、どんなものでも、一瞬の夢であり、夢とは、恐らく、判断の欠けた短い目覚めだらう。だとすれば、諸君は、どうして私が、自分のあるがまゝの感情をうまく判断できると思はれるか。
ヘーゲルは、あるがまゝの、自然な魂は、いつでも憂鬱に包まれてゐて、打ちひしがれてゐるやうだ、と言つてゐる。この言葉は、私には美しく、深いものだと思はれる。自らについての反省は、それで立ち直らなければ、悪い遊びだ。そして、自らに問ふ者は、いつでも下手な答へをする。自分についてぢつと考へるだけといふのは、退屈、悲しみ、心配、焦(あせ)り、に過ぎない。試しに、かう、自分に尋ねてみたまへ。「暇つぶしには、何を読めばいいかなあ」。諸君は、もう、欠伸(あくび)をしてゐるだらう。身を入れないといけないのだ。したいといふ気持ちは、するといふ意志として完成しないと、消えてしまふ。草や貝殻を調べるやうに、自分の考へを調べることを、人に求めるやうな心理学者達について判断するには、以上の指摘で充分だ。考へるとは意志を持つことなのだ。
ところが、外の生活、商売、仕事では、誰もが自らを律し、一瞬ごとに立ち直つてゐるので、うまく行くことも、内の生活では、さうは行かない。誰もが、自分の情の上に身を横たへてゐる。眠るには良い。しかし、家庭の半ば眠つた状態の中では、どんなことでも、すぐに、とげとげしくなる。そして、最も善良な人達でも、おそろしい偽善へと導かれることが、よくある。注目すべきなのは、人は、ある種の意志で、自分の感情を隠さうとするが、その代わりに、意志で、体操のやうに動いて、自分の感情を変へようとはしない、といふことだ。不機嫌、悲しみ、退屈は、雨風のやうな事実であるといふ、この考へは、実は最初の、誤つた考へなのだ。要するに、真の礼儀は、感じるべき感情を感じることにある。人は、尊敬し、遠慮し、公平になることを自らに課す。この最後のものは、考へてみるのに良い例だ。最初の騒ぐ心から、さつと公平さに立ち戻る、といふのは盗人の心の動きではない。むしろ、それは、偽善の影もない、正直そのものだ。人は、どうして、恋愛でも同じだと思はないのだらう。恋愛は、自然ではない。欲望そのものも、自然なままで長くは続かない。だが、真実の感情は、作品なのだ。トランプで遊ぶのに、焦りや退屈の最初の感情にまかせて、カードを切る人はゐまい。ピアノを運に任せて弾かうとは、誰も考へない。音楽は、一番良い例だ。歌の場合でもさうだが、意志がなければ、支へて行けない。そして、神学者達が、時々、言ふやうに、優雅さは、その後にやつて来るのだ。彼等は、自分たちが何を語つてゐるか、分からないで、言つてゐるのだが。

 

親しい間柄にこそ、礼儀は必要なのだ、といふアランの主張の背景には、あるがまゝの感情は、言はば身体的なもの、物質的なものであり、それを精神によつて律することが、人間の人間たる所以だといふ考へ方がある。これは、アランがデカルトから学んだものだ。デカルトは動物機械論を主張したが、それは、精神の独立性を強調するためであつた。

 

たゞ、精神で感情を律すると言つても、心に念ずるだけでは足りない。アランの言ふ「体操」が必要なのだ。あるがまゝの感情を念じて変へることはできないが、この感情が身体から発するものであり、身体を動かす事はできるのだから、体の動きを介して感情を変へよう、といふのである。アランは、跪(ひざまづ)いて祈る、といふ行ひによつて心が静まるのも、さうした「体操」の一つだと見てゐる。

 

かうした考へ方は、東洋的な修行とも通じるものだらう。