張本勲氏と御母堂

讀賣新聞のコラム「時代の証言者」に元野球選手の張本勲氏の話が連載されてゐる。先日の第2回では、4歳の時に右手に負つた火傷の話だつた。有名な逸話のやうだが、感じた所を記す。

 

話は、かうだ。戦時中の食糧難の時代に、山で掘つた芋を焼いて飢えを凌いでゐたが、ある日、焼き上がるのを待つてゐたところ、後ろから来た三輪トラックに押されて、右手を焚き火の中に突つ込み火傷した。右手の指が内側に曲がつたまま、真直ぐ伸びなくなつた。その右手で、日本プロ野球史上初となる3000本安打など、数多くの記録を達成したのだが、それを誰にも語らず、誰にも見せなかつた。

 

その訳は、かうだ。

59年にパ・リーグの新人王をとって、広島に帰った時のことです。母と食事をしていて、「この右手がもう少し、良かったら、もっと成績も良かったのになあ」と思わず、愚痴をこぼしてしまいました。すると、母が泣き出したんです。自分がしっかり見ていなかったから、息子をそうさせてしまったという後悔の気持ちに駆られ、つらかったんでしょうね。
私は、「しまった。つまらないことを言ってしまった」と思いました。その時です。二度とそういうことは言わない、そして、人にも絶対に見せない、と心に誓いました。

 

張本氏の両親は韓国人で、4人の子供を抱へた御母堂が、戦争末期に、のんびりと生活してゐた訳はない。眼を放したとしても、遊んでゐたためではないだらう。それでも自責の念に駆られて泣き出す母と、それを見て誰にも見せないと誓ひ、守り通す息子。

 

81年に引退した後、「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治さんにだけは、見せたことがあり、絶句した川上氏を前にして、「わかってくれる人は、わかってくれるのか」と、ホッとした、といふ話からも、張本氏の心の裡が見えてくるやうな気がする。

 

不利な条件を超えて大記録を達成した陰には、人並みでない努力があつたに違ひないし、さうした努力に耐へる身体に産んで下さつた御母堂に感謝もしてゐただらう。

 

何でも他人の所為にする風潮の今日、こんな話を聞くと、神話でも読んでゐるやうな気がする。