死者の魂

「ある」とは誰かにとつて、何らかの主体にとつてあるといふことだ。この観点から、魂、特に死者の魂はあると言へるかを考へてみる。
先づ、私の魂は、他人から見て「ある」と言へるだらうか。「魂」とは、知覚と連続した記憶を持つもの(或いは持つこと)だとすれば、私が知覚や連続した記憶を持つてゐるかどうかは、他人からも確かめることができる。その限りで、他人にとつても私の魂(といふ現象)は「ある」と言へよう。記憶が怪しくなれば、魂が消えかかつてゐるといふことになるだらう。私が死んで仕舞へば、私の魂も消える。身体を持たない知覚といふものは考へづらいし、本人に尋ねて記憶の有無を確かめることもできないのだから。
故人の人格は残された者に影響を及ぼすのではないか、といふ反論があり得る。しかし、故人を偲ぶといふ行為を支へてゐるのは故人の魂ではなく、偲ぶ側に残された思ひ出だ。もし霊媒を通じて、或いは直かに、故人と話ができるのだとすれば、さうした交流を持てる人にとつて故人の魂は「ある」と言へるだらう。だが、かうした出来事は、あるとしても極めて稀である。一般的には、他人にとつて故人の魂は消えるのだと言ふべきだらう。
本人にとつてはどうか。私の魂は、私にとつてあると言へるのか。私の魂とは、私の人格そのものだ。その私は有る無しを判断する主体なので、自分で自分の有無を判断するといふ、眼が自分を見るやうな、をかしな事態となる。デカルトは、判断主体が無いのに判断ができる筈はない、判断力がある限り、その主体はあるに決まつてゐると考へて、「我思ふ故に我あり」と言つた。
それでは、私が死んだらどうだらうか。少なくとも普通の他人からは、私の魂は消えた状態となるのだから、私にとつても無くなる、私は消えると考へるのが自然だらう。判断主体が無いとすれば、有る無しといふ問題自体が意味を持たない、といふ理屈もある。ただ、この論では「無い」が出発点なのだが、それと「意味がない」といふ結論との関係は良く分からない。
それにしても、私は、私にとつて、この世界の中心であり、世界を成り立たせてゐる重りである。それが消えるとは、どういふことなのか、理解が難しい。意味が分からない。しかし、理解とか意味とかいふのは、この世界の中で生きて行くための手段なので、生きるといふ前提がなくなれば、意味が分からなくなるのは当然だとも言へる。
他方で、死後も何らかの知覚や統一性のある記憶が残る可能性が無いとは言ひ切れない。ベルクソンの説を聞くと、脳が記憶を蓄へてゐる訳ではなく脳は思ひ出すための(或いは不要な記憶を思ひ出さないための)装置に過ぎないといふのもあり得ることだと思はれるし、臨死状態などでの身体離脱体験が事実だとすれば、身体を離れた知覚もあり得ることになる。
しかし、さうした知覚や記憶を持つて、死後の私の魂は何をしてゐるのだらうか。草葉の陰から世の中を見てゐるのか、天使の歌を聴いてゐるのか。いづれにしても、この世との積極的な関係を失ふであらうことは、この世からは死んだ人達が見えないといふ経験的な事実から推測できる。
死者の魂が私達の知らないうちにこの世の動きに影響を与へてゐるといふことも考へられるが、さうした働きがあるにせよ、生きてゐる者達がそれを感知できないのであれば、彼等にとつては「ない」といふことなのだ。自分にとつてだけ「ある」といふ状態が「ある」と言へるだらうか。死者には死者達の世界があるのかも知れないが。