人が既に知つてゐること、知りすぎてゐること、余りにも多く眼にすることの予言者がゐる。暴力、復讐、仕返し、これは良く知られた教へであり、知られてゐるだけではなく、私の血管を巡つてゐるのだ。誰の中にもある肉と血なのだ。侮辱された男の憎しみの動きはどうだ。それは用心深さが働いてゐるので、自己愛から出たものだ、などと言はないで欲しい。何百年も何百年も、復讐さへ果せるならば、人は喜んで死んだのだ。
群衆が侮辱されると、さわぐ心が人から人への波となる様はどうだ、誰もがいきり立つ様はどうだ。この憎しみの心が満足するならば、全てが単純化され、全てが許され、崇められるのだ。後ろめたさは無い。誰もが自分の命を進んで差し出すのだから。かうした動きは、ありのままの性質と合致したものなので、離れてゐても、葬列の話や、戦闘的な演説と歓声の話を読むだけで、私は自分も戦争へと出て行くのだ。まるで何かの神が私に触れたかのやうに。もし憎しみに驕りが、驕りに野心が結びついたなら、あるいは、非常に明確な大きな義務が、この至上の怒りと合致しただけでも、誰が自分を抑へられるだらうか。脅しながら愛するといふ殆ど生理的な喜びを、自らに禁ずる者がゐるだらうか。酔ひが全てを混ぜ合はせ、最も良きものが最も惡しきものを見逃し、個人にも集団にも、乱暴者と暴君と正義との、素晴らしい統一が生まれる。偽善者たちは、この点を利用して、すでに一番世間知らずの人達の心を動かしてゐる。身を捧げて、楽しんで、死を物ともしないほど自らを高めてゐる、かうした事柄の本物の予言者ではどうなるだらうか。群衆は、彼の棺を担ぐだらう。私自身も、さうするだらう、もしも、私がそれを望んだとすれば。
人が見たことのないこと、多分、決して見ることのないことの予言者がゐる。先の場合とは逆に、その言葉には、全てが抵抗する予言者だ。理念や探究、疑問、良心の咎め、そして、先づ全てを分かつものを呼び起こす言葉だ。この予言者たちは、人が他人に、そして自分自身に、抗ふことを望むからだ。攻めるときも逃げるときも、愛するときも憎むときも、全く同じ様に。彼らは新しい秩序を予告する。それは全く存在せず、見ることもできないもので、我慢強い、報はれない、最初は成功しない、殆ど希望のない仕事によつて作り出さねばならない。正義、平等、平和。さわぐ心には忌まはしいものだ。かうした理念が、先づ分断し、苛立たせるといふのは、おもしろいことだが、当然でもある。さらには、軽蔑され、侮辱され、石をもつて追はれる。誰がさうするのか。人が解放しようとする奴隷たち自身だ。肉体には見えない理念であり、平等は卑しさだと、正義は隷属だと、平和は卑怯だと、中傷される徳目だ。そこに、恥づかしさが混じる。予言者は罵る声に追ひまはされ、一時の友人に裏切られる。全ての権力、全ての力が彼に反対する。彼はそれらの力を量り、時には恐れ、自らを疑ふこともある。彼の勝利はなかなか実現せず、すぐに忘れられる。自分自身に厳しすぎて、さわぐ心による同盟を拒絶するからだ。私は、この列に加はりたい。もう一方には、いつでも十分な人がゐるだらう。
二種類の予言者
アラン(1868-1951)は、気分に任せれば人は悲観的になる、楽観的になるには意志が必要だ、と説いた(1923年9月29日のプロポ)。同じ趣旨の事を、1914年2月6日のプロポでは、予言者の二つの類型といふ形で述べてゐる。
ベルクソンの閉ぢた社会と開いた社会を思ひ出しても良い。かうした考へ方で、アランは仏独間の戦争を防がうとしたのだ。それは果たせなかつたのだが。