節を曲げないといふこと

小林秀雄(1902-1983)が、フランスの思想家について、こんなことを書いてゐる。(『アラン「大戰の思ひ出」』 昭和15(1940)年)

ジイドにしても、アランやヴァレリイにしても、その分析や類推には、いかにもフランス人らしい鮮やかさや纖細さがあつて、先づさういふものが讀者の眼を惹くから、非常に頭はいゝが與(くみ)し易い人だ、といふ風につい思ひ込むのだが、少し奥の方を覗けば決してそんなものではない。決意に充ちた野人が立つてゐる。

そんなアラン(1868-1951)の性格が出てゐるプロポの一例(1914年4月1日)。
自分の意見を固く守る人は、普通、尊敬される。大したことのない理由で意見を変へる人は、軽蔑されるのが普通だ。かうした倫理的な判断を、道学者等は無視してゐる。しかし、これが一般的な倫理の一つの要素であることに変はりはない。 この点で、常識は、小哲学者等のぐらつく精神よりも、よく物が見えてゐる。この哲学者等は、完璧な精神とは、鏡が全ての物を映すやうに、どんな証拠にも、抵抗することなく速やかに適応するものだと考へるのだ。鏡であり、鮮明な姿に抵抗しないのは、むしろ詩人だ。詩人は、埋葬のミサで、陰鬱な鯨幕や鎮魂曲によつて、少しは信ずる心が出て来るのを抑へられない。しかし、物の分つた人間は、さう簡単には扉を開かない。

デカルトのやうな人の、あるいはデカルトの息子の、考へる手順は、どれも、信ずることに酔ふのではなく、信ずることを拒むためのものだ。すでにモンテーニュが言つてゐるやうに、法律、礼儀、一般的な先入観などを、実用的な理由で信じなければならない時には、この人達は、行ひだけを与へて、必要に応じて他の人と同じことをするが、自分の行ひが真実を示すものと受け取つたり、作法に適つてゐると判断して為したことを正しいと考へたりすることは、用心深く避ける。そのために、モンテーニュは柔軟な精神を持ち、自分に甘いと見えるが、実際には、全くそのやうなことは無い。逆に、内側では固く、扉を閉ざして判断してをり、自分だけを証人としてゐる。

デカルトは、私の眼には、さらに美しく見える。自分の国を出て、自分がその中で育つた模範が示す正しさから遁(のが)れ、意志により亡命した。規律を持つて旅し、放浪して、習慣を別の習慣で消さうとした。選り好みせず戦争までして、信じることなく動くことに慣れようとした。

自分の考への中でも、さらに亡命してゐる。「私は眼を閉ぢ、耳を塞ぐ。」悟性の英雄として、自分の意見においては、自分自身が定義したものしか考へないと決意し、詩人がするやうに、意見を熊手でかき集めることはない。固い決意の力、一種の自らに対する誓ひの力が見られるのは、純粋な幾何学においてである。測量師がやるやうに、実験で試してみて、「これでうまく行く。だから、これは正しい。」と言ふのは、ずつと簡単なのである。しかし、これは、自らの精神を裏切ることだ。同様に、普通の人間が、学識のある人が世論の風に身を任せるのを見ると、すぐに軽蔑するのは、正しい判断なのだ。

共和国が存在するから、あるいは存在するらしいといふので、諸君が共和主義者であるとすれば、諸君は共和主義者とは言へない。真の共和国とは、固い決意であり、定めた規範である。経験は、これに従はせるのだ。もし、現実の共和国が弱く、不正で、腐敗してゐるとすれば、その時こそ、理念のために耐へる時だ。さうでなければ、もはや考へる人ではなく、風まかせの腑抜けだ。だから、心の底では、意見に固執し、経験に自分を従はせることはしない、頑固な君主制擁護者を好むことになる。全て、日和見主義は卑しく、最悪なのは、日和見主義を称へ、それを教義とすることである。
なほ、「私は眼を閉ぢ、耳を塞ぐ。」といふのは、デカルトの『省察』第三部の冒頭からの引用。