仕事というのは自分で選ぶものではなく、仕事の方から呼ばれるものだと僕は考えています。「天職」のことを英語では「コーリング」とか「ヴォケーション」と言いますが、どちらも原義は「呼ばれること」です。僕たちは、自分にどんな適性や潜在能力があるかを知らない。でも、「この仕事をやってください」と頼まれることがある。あなたが頼まれた仕事があなたを呼んでいる仕事なのだ、そういうふうに考えるように学生には教えてきました。
「費用対効果のよい仕事がいちばんいい仕事だ」というロジックを推し進めれば、ディスプレーの前でキーボードをたたくだけで何億円も稼ぐような仕事がいちばん「賢い」仕事だということになります。でも、「仕事をする」というのは「手持ちの貨幣で商品を買う」ことではありません。それはむしろ、自分がいったい何を持っているのかを発見するプロセスなのです。
「適職は幻想だ」といふ言葉を読んで多くの人は驚くのではないかと思ふ。仕事に向き不向きはあるはずだと考へる人が多いだらう。仕事を自分で選んではいけないのか、職業選択の自由は憲法でも認められた基本的な権利ぢやないか、といふ反発もあるかも知れない。しかし、内田氏が問ひかけてゐる問題は、その権利をどう使ふかである。
親の仕事を継ぐことしかできなかつた時代とは違ひ、自分でやりたい仕事を選べるやうになつたことは福音であるはずだ。しかし、選ぶことは難しい。そもそも、何が良い仕事、自分に向いてゐる仕事だとどうすれば分かるのか。分からないから、世の中で評判の高い仕事、競争率の高い仕事に就かうとする。商品を買ふのと同じ考へ方で、なるべく有利な仕事、少ない労力で多くの収入が得られる仕事を探す。しかし何を選んでも、他にもつと良い仕事があつたのではないかといふ不安、もつと探すべきだつたといふ後悔など、不満の種には事欠かない。
さうしてあれこれ迷ふよりは、何か仕事を始めてみることが大事だ、縁のあつた仕事を一所懸命やることで道が開かれるのだ、といふのが氏の主張だらう。これは、古今東西の賢人たちの助言とも軌を一にする。
職業を物のやうに買ふものだと考へてゐる若者に対して内田氏が表明してゐる違和感は、エーリッヒ・フロムが"The Art of Loving"で示した、自分を商品と見、恋愛を取引と考へる米国文化への違和感と通じるものがある。職業は、収入を得る手段であるが、同時に、自分を知り、自分を生かすための道でもある。
かうした内田氏の論には基本的に賛成だが、いくつか疑問も残る。先づ、選ばれる機会をどう得るか。頼まれた仕事が天職だとしても、そもそも声を掛けて貰ふ機会がないとどうしやうもない。日本の終身雇用的な社会では、転職は難しい。労働市場の流動性、転職の可能性を高めることは、日本の息苦しさを緩和するために必要不可欠だと思ふ。これは企業側が考へるべき問題だが、求職者である学生の側からすれば、アルバイトやインターンなどの経験が重要な意味を持つのかも知れない。
また、これは殆ど無い物ねだりだが、なぜキーボードを叩くだけで何億円も稼げるかといふことについてもう少し突つ込んで考へると、面白いと思ふ。本来、収入は社会的な貢献に対する対価である。しかし、社会が複雑になると、さうした貢献と報酬との対応関係がうまく成り立たない場合も出てくる。FXは、その典型的な例だ。FXの取引で儲けた人は、どのやうな社会的貢献をしてゐるのだらうか。いろいろ理屈はあるかも知れないが、実態はギャンブルに近いだらう。多くの人の損失の上に一部の人の利益が出てゐるに過ぎない。敢へて言へば、一時の夢を与へるといふのがその社会的な効用だらうか。
しかし、かうした社会的効用と報酬との乖離は長続きしない。一部だけを見てゐれば、一時的に楽に稼げる仕事があるとしても、さうした仕事だけでは社会は成り立たない。大企業に就職すれば一生食ふに困らないといふ経験則は、大企業全体の社会的適応ができてゐる間は正しいが、企業内部だけを見て世の中の変化に気付かない人達、気付いてゐても行動に移せない人達が増えれば、それも怪しくなる。
今回の記事は、4回連載の第1回。この後の展開が楽しみだ。