自由意思は幻想か

茂木健一郎氏が、今日の連続ツイートで「自由意思が存在しないという、世界観」について論じてゐる。中国や韓国とのつきあひにおいて相手に過剰な期待をしてはならない、といふ論旨には同意するのだが、次のやうな言ひ方には違和感を覚える。

 

国としての中国や韓国のふるまいは、それぞれの国の人々の認識や行動の集合体である。そして、現代の脳科学の標準的な見解によれば、脳の振る舞いにおいて、「自由意思」(free will)は存在しない。それぞれの脳の内部、および外部との相互作用で指定された軌跡を追うだけのこと。

 

以前にも論じたことがあるが、脳科学が自由意思が幻想であることを示した、といふ議論は誤り、すくなくとも単純化が過ぎた議論だと思ふ。Libet 等の実験に基づいた議論だと思はれるが、あの実験はかなり限定的な条件で行はれてをり、それを一般化する際には十分な注意が必要だ。

 

例へば、時間軸の問題。Libet 等の実験は、ミリ秒で測られるやうな時間での自由意思を問題にしてゐる。しかし、現実に人間の決断が問題になるのは、もう少し長い時間だ。そもそも、非常に短い時間で判断を求められるやうな事態においては、意識的な対応では間に合はないので、生物には反射といふ機能がある。意識的な判断は、一時的な行動の停止を伴ふ。直ちに反応することを控へ、時間を犠牲にしながら、現状をより詳しく見て、将来の選択肢を考へるのが意識的な判断の仕事だ。物理的な現在は一瞬、一瞬だが、人間にとつての現在は、取返しがつくかどうかで決まる。挽回が可能である限り、それは過去ではないのだ。

 

時間をかけた判断が常に正しいとは限らない。単に時間を稼いでゐるだけかも知れないし、自分では客観的な情勢に基づいて決めたつもりでも、潜在的な欲望に左右されてゐるのかも知れない。しかし、そこには改善の可能性がある。それは、茂木氏自身が「誠実さの法則」といふ言葉で語つてゐる。

 

自由意思については、Erich Fromm が "The heart of man" (日本語訳は『悪について』)の第6章 "Freedom, Determinism, Alternativism" で述べてゐるところが面白い。スピノザマルクスフロイトの立場を踏まへながら、こんなことを言つてゐる。

 

Several main concepts are common to all three thinkers: (1) Man's actions are determined by previous causes, but he can liberate himself from the power of these causes by awareness and effort. (2) Theory and practice cannot be separated. In order to achieve "salvation", one must know, one must have the right "theory". But one cannot know unless one acts and struggles. It was precisely the great discovery of all three thinkers that theory and practice, interpretation and change are inseparable. (3) While they were determinists in the sense that man can lose the battle for independence and freedom, they were essentially alternativists: they taught that man can choose between certain ascertainable possibilities and that it depends on man which of these alternatives will occur; it depends on him as long as he has not yet lost his freedom.

 

自由意思といふのは、人間に必ずあるものでも、人間の手の届かないもの(あるいは単なる幻)でもなく、実践を通じて日々手に入れるべき、身につけるべきものなのだ。

 

エーリッヒ・フロムといふ人は、なかなか立派な人で、もつと読まれるべきだと思ふ。