聖夜

クリスマスイブに、アランが1922年12月20日に書いた文章を載せて置く。

 

クリスマスの夜、私達は何かを乗り越えるやう促される。この祭は決して諦めの祭ではない。緑の樹の明かりはどれも地上を支配する夜への挑戦であり、揺籠の幼な子は私達の真新しい希望を表してゐる。運命は打ち負かされる。運命とは私達の心を覆ふ夜のやうなものだ。私達の考へまで全てが定められてゐるといふ思ひの下で、考へることなどあり得ないから。さうだとすれば何も考へずにトランプ遊びでもする方が増しだ。
古い政治秩序では時間が消し去られてゐた。子供は父親の仕草を真似てゐた。僧侶も陶工も、初めから後の姿でゐて、それを知つてをり、他の何も知らなかつた。遺伝(世襲)は私達の思想に入る前から政治の法則にあつた。しかし、繰り返すために知るといふのは、全く知ることにはならない。想ひは世を変へるものであり、さうでなければ消える。灯りなしでできる機械的な作業が灯りで乱されるのからも分かるやうに。この人類の眠りの時代には起こることが全て知られ、身につき、繰り返されてゐた。戦ひ、飢饉、疫病、これらは全て予期されてゐた。子供は老いて生まれてゐた。東洋が私達に救ひは想ひを消すと教へる時、かつてあつたものを教へてゐるに過ぎない。
見えるものには力がある。子供は真似るからだ。階級の服装や道具で今でもその動きは細かく決まり、動きと同時にその考へも決まる。世の意見や制度が一体となり、子供を説得する。礼儀では、全ての想ひは言語道断なものだ。ものを知つてゐるのは年寄だ、お前がもつと上だと言ふのか。この法はもはや書面にはないが、依然として力を持つてゐる。考へ方にある子供じみたものは古い者達に酷く馬鹿にされるので、若者は、最初は眼を見張らせるが、やがて髭を生やし禿げた全ての神々に許しを乞ひ、時至らずして老いる。これが若い臣下の媚びだ。
クリスマスの大いなる夜には、逆に、幼さを崇めるやう促される。子供の中の幼さと、私達の中の幼さを。この新たな身体では、あらゆる穢れ、刷り込み、運命が否定される。それは神々の上に神を置くことだ。これを信じるのが簡単ではないのは、そのとほりだ。もし幼な子が少しでもその逆を信じてゐれば、その証明を与へるだらう。刺青のやうに世襲の印を付けてゐるだらう。だから心を決めて、その子を崇めるといふ別の考へ方を試さなければならない。信念を持ちたまへ、さうすれば証明がやつて来る。奴隷制は欠かせないと証明されてゐた。しかし、証拠となつてゐたのは奴隷制そのものだつた。戦争が平和に対する唯一の反証だつた。不平等、不正は、事実によつて自らの証明となり、事実により自らを正当化してゐる。力が支配するので自分を守らねばならぬ次第となり、力が支配する。だが、これは制度と衣装の悪循環だ。これには正しく思想と呼ぶべきものはない。想ふとは拒否することだ。私は公の談話を読むといつもこの誰のでもない想ひ、蜜蜂の想ひ、ぶんぶんといふ羽音に呆(あき)れる。「また最初からやり直すかい」とソクラテスといふ老いた幼なむ子は尋ねてゐた。しかし老人は被つてゐる帽子に応じて考へ、若者は帽子に値する者たらうと年寄の振りをする。古い信仰は志しを諦めさせるからだ。しかし新しい信仰は先づ志すこと、従つて望みを持つことを命ずる。一方が欠けると他方が成り立たないから。だからこそ、この老人の幾世紀、人々は老いながもクリスマスの伝説で自らを非難することを諦めずに続けて来た。美しさは正しさよりも巧みに語る。東方の博士達の宝物は、彼等を非難することに費やされる。これは古代世界の終りを告げてゐる。幼な子は何も持たない。それで足りてゐる。美しさは何かを意味するのだから、これが勲章に飾られた東方の博士が裸の幼な子を崇めるといふ、この美しい絵姿の意味だ。