人は頭で考へてゐるか

新年にあたり、アランの1923年1月17日のプロポを載せる。

 

ホメロスの英雄は頭では考へない。思ひを廻らせるのは何時でも胸と横隔膜の間だ。彼の身体の中では二つの力が働いてゐる。腹は飢ゑ、怖れる。飢ゑには勝てないが、飢ゑの力は予測できる。牛、羊、豚を捧げるだけで良い。食事は常に神々への捧げ物であることに注意したまへ。この点では人は必然を受け入れることしかできない。打ち勝つ望みは全くない。怖れはもつと欲張りで、何を与へれば良いかさへ分からない。与へれば与へるだけ取るから。怖れの兆しは主に鳩尾(みぞおち)に感じられる。この内なる敵はそこに住んでゐる。胸に住む寛(ひろ)い心を目覚めさせて、これに克たなければならない。それ故、困難な状況では英雄が自分の胸に語りかける。頭に語りかけることは決してない。頭はそこから見聞きする窓に過ぎない。そこから投槍の軌跡を測り、鎧の隙間を見つけるのだ。これは横隔膜が従順だと一番上手く行く。頭は、逃げるにも企みにも守るにも攻めるにも、何にでも役立つ実行係に過ぎない。大事なことだけ言ふならば、この説明で悪くないだらう。
一方、 私達は頭で考へようとする。この強い先入観はどこから来るのか。私は本の読み過ぎが大いに関係してゐると思ふ。頭が疲れたと言ふ時、大抵は眼が疲れてゐるのだ。私達が自分の考へと呼ぶものは読書の思ひ出や暗唱に過ぎないこともあり得る。眼でも、耳でも、舌でも、分別するのは何時でも頭だ。しかし分別は考へるのとは違ふ。この計算機は、喉と耳の間で絶えず忙しくしてゐて、私達に治めてゐるのは頭だと思はせる。逆にこの分担は機械的な仕組みの印だ。良く治められた人間には部分は無い。私達は生理学にも騙される。生理学は魂といふ影や息吹を否定してはゐても、依然としてそれを求めてゐるから。そして、あらゆる神経に命令するこの中央局を見つけて、思慮、決断を全部そこに納める。この中央局の全ての線の集まる所に別の人間がゐて、人間を歩かせ、眼、耳、胸、腹、脚、腕から来る信号を受けて、これらの僕(しもべ)に命令を送り返してゐるかのやうに。これは神話でしかない。
どこかにゐる操縦士といふこの迷信を完全に消せば、脳や他の中枢、神経の枝分れは、単に、身体の一部で起こる事で他の全ての部分に影響を及ぼさないものはないといふことを表してゐるに過ぎない。ある人間の動きから彼が考へてゐると判断する時に、私が言ひたいのは、全体が部分を率いてゐるといふことに他ならない。運動選手の考へる身体は、このことを表してゐる。逆に、迷ふ人、酔つ払ひ、気の触れた人では、部分と全体の連絡が悪いのが分かる。ここから、脳の障害が思考を乱すのは明らかだ。しかし、そこで思考は脳にあると結論するのは誤りで、相変はらず操縦士や小人といふ神話的な想定に基づく結論だ。幸運にも私は最近、ある時は「イーリアッド」を、またある時は正直でよく働く心理学者を読んで来た。心理学者によつてホメロスを説明しようとの考へを持つてゐたのだらう。しかし饒舌な頭に身体を付け直すことで、心理学者を正し、改めるのは何時でもホメロスだ。

 

心と身体の関係は依然として難問だが、物としての身体から心を説明しようとする生理学的な方法論だけでは解決できないと思はれる。単なる物としての身体ではなく、その働きから高次の現象が出現するといふ考へ方もあるが、部分的な説明に留まる。根本的なところに立ち戻り、科学的な方法論の制約を再確認するとともに、心と身体を合はせ持つ人間の在り方を、丁寧に記述することが重要だと考へる。このアランの文章は、心の働きにおける頭以外の部分の重要性のみならず、全体と部分との関係、一つであるといふことなど、いろいろと考へる種を提供してくれ、さうした作業の良い出発点の一つとなるだらう。今後、最近読んでゐる興味深い本の内容なども、随時、紹介したいと考へてゐる。
 
本年も、どうぞ宜しく。