人生観とか世界観とか道徳思想とか宗教思想と哲学とは無関係ではないまでも、けっして同じではありません。そういうものなら、日本にだってあったわけですが、誰もそれを「日本の哲学」とか「日本人の哲学思想」とは呼びません。そういうものが哲学の材料になることはあっても、それがそのまま哲学ではなく。哲学は、それらの材料を組みこむ特定の思考様式で、どうやらそれは「西洋」という文化圏に特有のものと見てよさそうです。
では、どういう思考様式かというと、それは、「ありとしあらゆるもの(存在するものの全体)がなにか」と問うて答えるような思考様式、しかもその際、なんらかの超自然的原理を設定し、それを参照にしながら、存在するものの全体を見るようなかなり特定の思考様式だと言っていいと思います。
そのばあい、その超自然的原理は、「イデア」(プラトン)とか「純粋形相」(アリストテレス)とか「神」(キリスト教神学)とか「理性」(デカルト)とか「精神」(ヘーゲル)とかその呼び名はさまざまに変わりますが、しかしどう呼ばれようと、生成消滅する自然を超え出た超自然的なものであるには変わりなく、それに応じて、「存在するものの全体」がそのつど、「イデアの模像」として、あるいは「純粋形相」を目指して運動しつつあるものとして、あるいは「理性」によって「認識されるもの」として、「精神」によって「形成されるもの」としてとらえられるわけなのです。
しかし、われわれ日本人の思考の圏域には、そんな超自然的原理なんてものはありませんから、そうした思考様式は、つまり哲学はなかったわけであり、それが当然なのです。ですから、自分のわかりもしないものを分かったふりする必要などまったくなかったのです。