木田元(1928-2014)

木田元さんが亡くなつた。現代に生きる哲学者として、最も信頼すべき人の一人だつた。

 

哲学者でありながら『反哲学』などといふ題の本を出すところが、いかにも木田さんらしい。しかも極めて真面目な発言なのだ。

 

人生観とか世界観とか道徳思想とか宗教思想と哲学とは無関係ではないまでも、けっして同じではありません。そういうものなら、日本にだってあったわけですが、誰もそれを「日本の哲学」とか「日本人の哲学思想」とは呼びません。そういうものが哲学の材料になることはあっても、それがそのまま哲学ではなく。哲学は、それらの材料を組みこむ特定の思考様式で、どうやらそれは「西洋」という文化圏に特有のものと見てよさそうです。
 では、どういう思考様式かというと、それは、「ありとしあらゆるもの(存在するものの全体)がなにか」と問うて答えるような思考様式、しかもその際、なんらかの超自然的原理を設定し、それを参照にしながら、存在するものの全体を見るようなかなり特定の思考様式だと言っていいと思います。
 そのばあい、その超自然的原理は、「イデア」(プラトン)とか「純粋形相」(アリストテレス)とか「神」(キリスト教神学)とか「理性」(デカルト)とか「精神」(ヘーゲル)とかその呼び名はさまざまに変わりますが、しかしどう呼ばれようと、生成消滅する自然を超え出た超自然的なものであるには変わりなく、それに応じて、「存在するものの全体」がそのつど、「イデアの模像」として、あるいは「純粋形相」を目指して運動しつつあるものとして、あるいは「理性」によって「認識されるもの」として、「精神」によって「形成されるもの」としてとらえられるわけなのです。
 しかし、われわれ日本人の思考の圏域には、そんな超自然的原理なんてものはありませんから、そうした思考様式は、つまり哲学はなかったわけであり、それが当然なのです。ですから、自分のわかりもしないものを分かったふりする必要などまったくなかったのです。

 

ところが、ニーチェ以降の現代欧米の哲学者のものを読んでいると、彼らにしても、こんなものを頼りにものを考えるのはおかしいと思っているらしいことに気がつく。というより、彼らはそうした超自然的原理の設定を積極的に批判し解体しようとしているわけなんで、そう思ったら、これまでの日本の哲学研究者たちの集団自己欺瞞がおかしくて仕方なくなりました。分からないものは分からないと、素直に認めれば、なんの問題もなかったはずなのに。しかし、わたしにしても、それを口に出して言えるようになったのは、五十を過ぎてからでしたね。

 
西洋哲学の深い理解に基づいて、その新しい動きを分かりやすい言葉で説明するだけではなく、『ハイデガー存在と時間』の構築』のやうな立派な研究も発表してをられる。若いころに感銘を受けたハイデガーについて、30年以上の歳月をかけて初めて本格的な著作を発表するといふ、学者の鑑たるべき誠実な研究者でもあつた。

 

裏付けとなる知識が豊富なので、読み返す度に何か得られる、そんな本を書いた人だつた。ご冥福をお祈りする。