ピラミッドは死を表してゐる。山のやうなその形から明らかだ。重力の働きに任せると積まれた石はピラミッドの形になる。だからこの形はあらゆる建造物の墓なのだ。恐ろしいことに、建築家は意図的に死に従つて建て、永く続くことを狙つた。まるで生きるのが束の間の乱れであるかのやうに。鎖に繋がれた様々な像もそれを示してゐるが、ピラミッドの方が永遠の不動のさらに完成した姿だ。そして、見る者に、感じることも見つけることも出来ないミイラを知らせる。想ひと姿が一致してゐて、一目見たら、人はあらゆる部分を一度に打たれ震はされる。ピラミッドは見て最も美しいものだと聞くが、確かにさうだらう。
ギリシャの神殿は生を表してゐる。全てが重力に逆らつて企てられ建てられてゐる。柱の縦横の比や各部分が、支へであることを語る。ここでは石工の印である直角が支配的だ。何も崩れない。重さのあるもの全てが、地面に落ちて盲目的な力により山形になることを拒んでゐる。神殿を廻る心躍る柱廊、壁が抜かれ風が通ふ命の道であるポルティコが、それを示してゐる。大胆に持ち上げ支へられた屋根は、鋭い先端で空中に留まり、屋根の傾斜は、服従を代償とした永続を拒んでゐるかのやうだ。人間に相応しい均整の取れた努力、活発な思考だ。人知を超えた、計り知れないものを求めてはゐないのだから。ソクラテスやプラトンは、この人間の家に微笑んでゐた。測量士の印、幾何学者の印だが、人間から離れ、別の印、逞(たくま)しい神が自由に動くに任せる。生命と融和した思考の完璧な絵姿だ。高い場所で神殿は人間のやうに呼吸してゐる。円柱の間に、地上の道と海上の道が、切れ切れに動くのが見える。清々しい空気と眺めで群衆が活気づく。法則が発明を支へる。ここでは列を成す者達が思ひを巡らせるので、フリーズは小さな衣紋からも感じらるやうに多様で優美だ。全ては幸せな自由、忘却と再生を歌つてゐる。何もかもが若々しく冒険心に富む。全てが「異教的」だ。この言葉は一度しか意味を持たなかつた。この美しさは今日でも語りかける。空になつた神殿は今だにその円柱の辺りや階段の上に競技者の叫びとオリンピックの活気を放つ。謎に満ちた墓ではないのだから、決して外から内ではなく、内から外だ。精神の墓ではなく、むしろ精神はそこで一瞬一瞬に再生し、飛び去る。何時でも馬を馬車に繋ぎ鞭を執る活動的なアテネ神のやうに。見張る精神の四方に開けた棲家だ。屈せず微笑む形。世界にただ一つの法則による自由の姿だ。
(岩波文庫版 31~32頁)
(同33ページ)
(同43ページ)抽象衝動においては、自己抛棄の強さは比較にならないほど大きな、そして徹底的なものである。この場合それは感情移入の欲求におけるように、個人的存在を抛棄しようという衝動によって特徴づけられるのではなくして、必然的なもの、確固不動のものを觀照することによって、人間存在一般における偶然的なもの、即ち一般の有機的存在に現われる恣意を抛棄しようという衝動によって特徴づけられている。即ち生命そのものが美的享受の障碍と感ぜられるのである。