オーギュスト・コントが人種について述べたことは、今も考へてみる価値がある。誰でも自分の周りの人間を、知性、活動、情感のどれが勝つてゐるかで三種に区別できるやうに、人種も活動的な黄色人種、知的な白色人種、感情的な或いは愛情深い黒色人種に分けることができる。しかし、この差は従属的なものと理解すべきだ。愛、憎しみ、嫉妬、熱狂、希望、後悔、喜びや悲しみの感情が、肌の色に係らず、その原因から経過まで全ての人で同じであるやうに、また、仕来り、習慣、手法、労働、粘り強さといふ活動についての決まりが、肌の色に係らず誰についても同じであるやうに、知性は誰でも同じだ。幾何学は誰にとつても同じであり、天文学は誰にとつても同じで、最初の印でそれと分かる。私はといふと、様々な肌の色の下に兄弟である人間を認めるのに何の苦労も要らなかつた。気付けば私達の周りにゐる人々も様々なのだ。外に獲物を探す黄色人種的と言へる注意力は白い肌の顔にも見られるし、美しい眼の黒色人種の忠誠心も同様だ。誰でも、行動を企てる時も情念を反芻する時も、知性が優位にある。知的なタイプは白人では普通だが、これが他のよりも優れてゐると決めつけてはならない。かうした議論は、栗毛と金髪とどちらが良いか、農民と都会の人では、詩人と打算的な人ではどうか、と問ふのと同様に無意味だ。それぞれに自ら実現すべきそれなりの理想像がある。専制君主的な精神は、自分の反映を探し求め、ドイツ人も黒人も拒む。人種を発明し、軽蔑しながら生きる。私にはさうした病は無い。違ひや多様性が好きだ。
まだ若い黒人達に驚くやうな暴力と怒りの激しさを見たことがある。しかし長くは続かないで、信頼、愛情、感謝が子供のやうな微笑とともに戻つて来たものだつた。彼等は、理解し忘れない十分な能力を持つてゐたが、知性の強さは無かつた。これはどの人種にも稀なものではあるが。私にはその訳がよく分かつた。彼等は何でも構はず理解しようと狙ふ好奇心を持つてゐないのだ。しかし、愛するよりも考へることを好む私達の人間の型にも、他の型と同様に調和のある文化が必要であり、野蛮なままでは別種の怪物になると、私には思はれる。私達が全世界に数学を教へ、黄色人種が私達に行動を教へ、黒色人種が私達に忠誠を教へたとすれば、この取引で誰が一番得をするだらうか。皆が得をする。人類を形作るには、三つの人種の協力が必要なのだらう。
黒人の召使を知つてゐる人々は、素晴らしい事実を語る。黒人の乳母が乳飲児を自分の子供のやうに愛し、不運な時にも迷はず後悔せず幸せにさへ感じて忠誠を尽くすのは、決して稀ではない。かうした広い心の人達が肖像画などの手放すことの出来ない思ひ出の品を大切にし、金銭を軽蔑するのは普通のことだ。どんな茶番を演じても、何時でも用心が気持ちに勝つ私達の所では殆ど信じられないが。この単純過ぎる定式化に拠つても、両者のどちらが主人となりどちらが奴隷となるかが決められるだらう。怒りが愛情に近いことや、復讐にある忠誠心を考へれば、結局冷たい白色人種が最初に世界を統べるのが分かるだらう。知性はある意味で価値の小さなものだ。しかし全ての価値から王と崇められる。朽ちることのない知性によつて全ての価値が認められるからだ。
「死者をいかに生かし続けるか オーギュストコントにおける死者崇拝の構造」