斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』(II-1 経済:生活を支へる)

斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』を読んだ。いろいろな刺激に充ちてゐる本だ。

人新世」といふのは、Anthropoceneの訳語で、人類が地球環境に大きな影響を与へてゐることを踏まへて、新しい地質時代の名称として提案されてゐる言葉だ*1。かうした言葉が出てくる程、人間の活動によつて地球の様子が変はつてをり、その影響は気候変動などの形で身近に感じられるやうになつた。経済の仕組みを見直さなければならない、といふ意識も広がつてゐる。この本で斎藤氏は、かうした状況の中で、どのやうな選択肢があり得るのかを、晩年のマルクスの思想を参考にしながら、検討してゐる。

気候変動に対応する四つの選択肢

斎藤氏は、人新世に生きる私達の未来には四つの選択肢があると考へる。秩序を維持する中央の権力が強いか弱いか、平等か不平等かによつて区別される以下の四つだ。

1.気候ファシズム 権力が強く、不平等

2.野蛮状態 権力が弱く、不平等

3.気候毛沢東主義 権力が強く、平等

4.X(エックス) 権力が弱く、平等

1.気候ファシズムは、現状維持型で、気候変動を無視して経済成長を続ける道。当然、気候変動による被害も出るが、富裕層は何とか生き延びられるし、逆に、気候変動によつて生まれる新しい「ニーズ」は新ビジネスの種になる。

2.野蛮状態は、気候ファシズムの先にあるもの。環境難民が増え、食糧不足*2になれば、貧困層の反乱は避けられない。富裕層は力でそれを抑へようとするが、最終的には多勢に無勢で、強権的な体制は崩壊し、世界は混沌に陥る。誰も統治機構を信頼せず、自分の生存だけを考へて生きる、ホッブズの「自然状態」。

3.気候毛沢東主義は、野蛮状態を避けるために、自由市場、自由民主主義を排して、中央集権的な独裁国家トップダウンで気候変動対策を実施する体制。

4.X(エックス)は、強い国家に依存しないで、民主主義的な相互扶助により、気候危機に取り組むことで、公正で持続可能な未来を目指すもの。これが斎藤氏の提案する道だ。

資本主義では無理なのか

斎藤氏の本で注目すべきなのは、資本主義の体制では地球環境問題は解決できない、といふ主張だ。

 資本主義とは、価値増殖と資本蓄積のために、さらなる市場を絶えず開拓していくシステムである。そして、その過程では、環境への負荷を外部へ転嫁しながら、自然と人間からの収奪を行ってきた。この過程は、マルクスが言うように、「際限のない」運動である。利潤を増やすためにの経済成長をけっして止めることができないのが、資本主義の本質なのだ。

 その際、資本は手段を択ばない。気候変動などの環境危機が深刻化することさえも、資本主義にとっては利潤獲得のチャンスになる。山火事が増えれば、火災保険が売れる。バッタが増えれば、農薬が売れる。ネガティブ・エミッション・テクノロジーは、その副作用が地球を蝕むとしても、資本にとっての商機となる。いわゆる惨事便乗型資本主義だ。

Kindle版では位置No.1186/4274)

資本主義をどのやうに捉へるかによつて、この斎藤氏の主張には様々な反応が出てくると思はれるが、問はれてゐるのは、経済成長は善なのかといふ問題だとも言へるだらう。より多くの仕事があること、より多くの財・サービス(長いので、以下の文章では「商品」と呼ぶ。)が提供されることは、良いことなのか。

仕事は多い方が良いのか

今の日本では、仕事が多い方が良いと考へる人が大半だらう。仕事が無いと収入が無く、収入が無いと食べて行けないのだから、これは分業と市場経済を前提とすれば、当然な意見だ。しかし自給自足をしてゐる人には、同じ物が得られるのであれば、仕事は少ない方が良いのかも知れない。耕運機で畑仕事に必要な時間が半分になれば、残りの時間はのんびりすることもできるし、家族で遊びにも行ける。(勿論、耕運機や燃料を買ふためにお金は必要なのだが。)

企業にとつても、仕事は多い方が良い。利益が増え、配当が増えて株主が喜ぶし、給与が増えれば従業員も喜ぶ。将来の成長のために投資もできる。しかし、この企業が提供する商品に対する需要は無限ではないので、仕事量を増やすにも限界がある。供給量が増えるにつれて、他社との競争はどんどん厳しくなり、利益は減ることとなる。

これまでは、技術革新によるコストの低下で、新しい需要が掘り起こされて来たが、地球環境問題は、さうした拡大路線が転機に来てゐることを意味する。

商品は多いほど良いのか

手に入る商品が多いほど人々は幸せになる、といふのが一般的な考へ方だらう。しかし、少なくとも先進国の一部では、商品が多すぎて、満足感が逆に下がるといふ問題も生じてゐる。

そもそも、一人の人間が食べることができる食事の量には限りがある。一度に何着も服が着られる訳ではない。そして何より、楽しむには時間が必要だ。また、楽しむことにも、学びが要る。同じ本を読み、絵画を見、同じ音楽を聴いても、その人が持つ素養によつて、得られる楽しみには大きな差がある。先進国では、それぞれの商品を十分に楽しむには、一生かけても足らない程のものが、既に存在してゐると言へるだらう。

選択肢が多くなることは良いことだが、余り多くなると、目移りがするし、自分が得たものと手に入れられないものとを比べると、後者の量が大きくなるだけ、不満が高まるといふ面もある。

さらには、斎藤氏が指摘してゐるやうに、これらの商品を提供するために、人々がどのやうに働いてゐるかが問はれるべきだ。楽しむ人がゐなければ、楽しむ時間がなければ、どれだけ商品を増やしても、無駄なのだから。

「脱成長」のあり方

かうした点を考へると、経済成長は絶対的な善とは言へなくなる。1970年代に「成長の限界」といふ問題提起がなされたやうに、経済成長を見直すべきとの主張は過去にもあつたが、地球環境問題により、いよいよ「脱成長」が欠かせなくなつて来てゐるのかも知れない。斎藤氏は、その「脱成長」を次のやうに定義してゐる。

アンチテーゼとしての脱成長は、GDPに必ずしも反映されない、人々の繁栄や生活の質に重きを置く。量(成長)から質(発展)への転換だ。プラネタリー・バウンダリーに注意を払いつつ、経済格差の収縮、社会保障の充実、余暇の増大を重視する経済モデルに転換しようという一大計画なのである。
Kindle版では位置No.1382/4274)

ここで斎藤氏は、脱成長と資本主義は本質的に相容れないと考へる。利潤追求、市場拡大、矛盾の外部への転嫁、労働者と自然からの収奪は、資本主義の本質だと見てゐるからだ。

それに代はる道として斎藤氏が提唱するのが、第四の選択肢Xである。具体的には、知識、自然環境、人権、社会など、資本主義で解体されてしまつた<コモン>を意識的に再建するコミュニズム*3

斎藤氏は、この本の後半で、晩年のマルクスが、進歩史観を捨てたと言ふ。そして、経済成長しない共同体社会は、持続可能で、平等な人間関係と自然な物質代謝を実現する、と考へるに至つた、と述べてゐる。人新世時代に必要なコミュニズムの思想は、ソ連型のコミュニズムではないことは勿論、生産力至上主義をも脱したコミュニズムであり、晩年のマルクスも、さうした考へに至つてゐた、といふ訳だ。

マルクス主義が見直される背景

斎藤氏の意見もさうだが、近年、欧米でもマルクス主義が見直される傾向にある。その背景には、グローバル化や先進国での新自由主義によつて貧富の格差の拡大などの問題点が顕在化してゐることがあるだらう。

自由主義経済によつて生じる貧富の格差や環境汚染などの問題に対応するために、先進国では社会福祉の充実、累進的な所得税の導入、環境規制などの対策が講じられて来た。かうした対策で資本主義は安定したかに見えたが、グローバル化によつて事情は大きく変はつた。

競争は地球規模で行はれることとなつたが、そこに参加する企業が置かれた環境は、国によつて大きく異なる。賃金水準、労働規制や環境規制などの法制度、国営企業の役割などが、さうした環境の違ひの例だ。先進国の企業は、グローバル化による新しい競争条件に対応するために、低賃金の国に生産を移したり、材料や部品を国内ではなくコストの安い外国から調達しようとする。その結果、先進国の労働者の賃金は上がらず、海外展開ができない企業は廃業に追ひ込まれる。中流階級が崩れ始める。廃棄物は、環境規制が緩い国に流れることとなつた。

先進国から発展途上国に生産が移ることは、世界規模での経済水準の平準化が進むことで、望ましいといふ見方もできる。ただ、未成年が過酷な労働を強ひられたり、環境破壊が進むなどの、無視できない問題もある。これらの問題に対応するためのグローバルな統治機構は存在せず、主権を主張する国々の合意によつて作られたWTOなどの国際機関が、貿易に関するルールを決め、守らせる役割を負つてゐるのだが、主要国間の利害が対立して、有効に機能しない場面が増えてゐる。国際的には、「野蛮状態」が生じようとしてゐると言へるだらう。

地球環境問題への対応を考へるのに有益な本

斎藤氏の主張する第四の道「脱成長コミュニズム」で、「野蛮状態」や「気候毛沢東主義」を防ぐことができるのだらうか。

氏は、晩年のマルクスの構想を、1)使用価値経済への転換、2)労働時間の短縮、3)画一的な分業の廃止、4)生産過程の民主化、5)エッセンシャル・ワークの重視、の5点にまとめて、これらが第四の道を実現するための手段であると言ふ。

本当に、それが実現できるのか、いや、その前に、そもそも「脱成長」が望ましいのか、議論は尽きないだらう。また、議論だけで、真実が分かるといふものでもない。将来を正確に予測することなど、できないのだから。逆に言へば、さうした見通しが不透明な状況だからこそ、これから目指すべき目標をしつかりと決めて進む必要があるのだ。

斎藤氏の意見には多くの反論があるだらうが、さうした人達も、氏が掲げてゐる資本主義の問題点について、何らかの回答を示す必要があるだらう。この本では、「脱成長」に関連する内外の主な論者の意見が紹介されてゐて、参考文献も充実してゐるので、世界でどのやうな議論が行はれてゐるのかを知るのに、とても便利だ。賛成するにせよ、反対するにせよ、一読に値する本だと思ふ。

避けられない日本の「脱成長」

私見では、「脱成長」は日本にとつて避ける事のできない問題だ。労働人口の減少とエネルギーの制約で、早晩、日本のGDPは減少に転じざるを得ないからだ。労働人口の減少については、AI導入に拠る生産性の向上や外国人労働者の増加で対処できるといふ見方もあるだらうが、外国人労働者を増やした欧米諸国の経験をみてゐると、楽観的にはなれない。エネルギー問題については、原子力発電に頼るといふ、典型的な「後は野と成れ」型の「解決策」を諦めるとすれば、エネルギーコストの大幅な上昇は不可避だ。

仮に、卑見が正しいとすれば、今、考へておくべきなのは、どのやうに「脱成長」を実現するか、だらう。GDPが下がり続ける社会で、企業はどのやうに活動するのか、構造変化で必要となる労働の移動のために、政府としてどのやうな策を講じるべきなのか、これからの公共事業で何を整備すべきなのか、等々。

いづれにしても、今まで通りのやり方ではやり過ごせない時代になつてゐることは確かなので、従来の枠に囚はれず、様々な可能性を議論すべきだらう。

*1:この本では「ひとしんせい」と仮名が振られてゐるが「じんしんせい」といふ読み方もある。

*2:先日、NHKスペシャルで、「2030 未来への分岐点 (2)「飽食の悪夢〜水・食料クライシス〜」」といふのを放映してゐた。食糧危機は、他人事ではない。

*3:斎藤氏は、このあたりの議論を、スラヴォイ・ジジェクの主張を参考にしながら進めてゐる。