人類の進歩

1921年7月4日のアラン(1868-1951)のプロポ。

つづら折りに上つてゆく道。進歩の美しい絵姿で、ルナンが示したのをロマン・ロランが受け継いだ。しかし私には良いものだとは思はれない。知性が、考へ込み過ぎて、多くの事柄で、待つことを旨とした時代のものだ。私が、この絵姿で誤りだと見るのは、この道が予め引かれてゐて、いつでも上つてゐることだ。これでは愚か者や暴れ者の国でも、見かけはどのやうなものであらうと、私達を一層の完成へと押し上げることになる。要するに、人類はどんな手段によつても、鞭打たれ辱められることはあるにせよ、絶えず前進し、その運命の地へと歩むことになるのだ。善きも悪しきも、賢きも愚かなるも、望む望まないに係らず、知つてゐようとゐまいと、同じ向きに進む。私はここで、何があつてもその目論見が実現する、そんな上なる神々の手練手管を思ひ出す。しかし、私はご免だ。こんな機械仕掛は、私がそれを信じたとしても、好きにはなれなかつただらう。トルストイも、好んで、自分を大きな渦の中の一つの原子に過ぎないと考へた。彼らの前に、パングロス*1も、神の摂理が、数多くの悪から僅かの善を引き出すのを讃へた。私としては、進歩が定められたものだと信じることはできない。そんなものは頼りにならない。人間は旅する惑星の上に一人、裸で、一瞬毎にその行方を決めてゐる。身を任せれば悪い定めへと、自分を取り戻せば良い定めへと。私はさう見る。

コント*2に倣つて、私達の戦ひ、私達の過ち、私達の勝利について、もつと良い絵姿を探してみよう。もし諸君が帆かけの漁船、その風に向かつて進む時の回り道、巧みな技、折れ曲がつた道筋を見たことがあれば、欲するvouloir*3とはどういふことかが分かるだらう。この海は、私達をどうしようとも思はない。良いことも悪いこともしようとは考へない。敵でもなければ、助けても呉れない。人々が死に絶え、すべての生命が消えても、海は動き続けてゐるだらう。この風も、同じやうに、太陽に従つて吹くだらう。情けを持たず是非を超えた力だ。波は、水の重さや流動性により、風や月に従ふ。風は寒さ暑さを均(なら)す。不変の法則により踊り、走るのだ。同じ様に板は、水の一滴一滴が他の無数の滴に支へられてゐるといふ不変の法則により、密度に応じて浮き沈みする。私が風に帆を張れば、風は角度に応じて押し返す。流れに対して板を置けば、流れはこれも押す。竜骨の舳先で流れが開き、船端で抵抗するのと同じだ。これらを見届けた上で、人間は危険を冒して、帆柱と帆桁と綱を使つて帆の向きを変へ、舵を潮の流れに押し当て、斜めに進んで距離を稼ぎ、向きを変へ、これを繰り返す。風の力そのものにより、風に逆らつて進む。

私は幼い頃、海を見るまでは、船はいつでも風に押される方に進むと思つてゐた。舵取りが、不変の法則により風を抑へる様(さま)を見た際には、習慣を理性とは受け取らなかつた。理解することが必要だつた。本物の神が現れて、私はそれを意志volontéと呼んだ。同時に、これに従ふ知性の力とその本当の使ひ方が姿を見せた。櫂(かい)、水車、鶴嘴(つるはし)、梃子(てこ)、弓、投石器、全ての道具、全ての機械が私をそこに連れ戻した。私は考へidéeが働く様と、盲目な自然が馬の調教師により御されるのを見た。私が、私達の船がその上で踊るやうな大きな力には、それが人間のものであらうと、何も期待しないのは、かうした訳だ。先づは、諸力に逆らつて欲するvouloirことだ。次に、その力が、どんな不変の法則により、どんな具合に押すのかを見届けねばならない。諸力が盲目で何らの目論見も持たないと感じる程、私はより一層、それらを支へにする。法則は強く、疲れを知らず、私よりもはるかに大きな勢力を持つが、さうであればある程、私は望む場所に導かれる。向きを変へ損ねたら、それは私の過ちだ。小さな過ちでも報いがある。欲することを忘れただけで、しばらくは漂流物になる。しかし、少しの知識を不屈の粘り強さに結びつければ、すぐに力が得られる。この人殺しの怪物を、私は神とも悪魔とも呼ばない。ただ、それに轡(くつわ)を掛けたいのだ。

アランにとつて人類の進歩とは、盲目な諸力が支配する世界を相手に、一瞬一瞬に勝ち取るべきものであつたのだ。物の世界と心の世界をはつきりと分けて、判断や意志に私達の価値の源を見出すといふ姿勢は、デカルトやカントから学んだものだらう。知性は、意志に従ふべきものとして位置づけられてゐる。

しかし、ここには幾つかの残された問題がある。アランが説く折れ曲がりながらも風に逆らつて進む道は、どこに続くのか。アランにとつて進歩とはどのやうな方向に進むことなのか。

意志volontéは物の世界の力とどのやうな関係を持つのか。全く独立してゐると言へるのか。どのやうな仕組みで意志は世界を動かすことが出来るのか。(「心身問題」)

価値の源は、神などのやうに外にあるものではなく、私達の意志volontéにあるといふ主張は理解できるとしても、意志は誤ることはないのか、常に理に適つてゐるのか。(深層心理の問題)

また、人々が様々な異なる意志を持つときに、それをどう調整するのか。(個人と社会の関係)

かうした問題をアランがどのやうに考へたのか、必ずしも明確ではないが、その文章を読みながら探つてみたい。

*1:ヴォルテールの風刺小説『カンディード』の登場人物

*2:実証主義者として知られるオーギュスト・コント。アランはコントを高く評価してゐた。

*3:vouloirといふ言葉は、この文章からも分かるやうにアランにとつて大切な言葉なのだが、日本語には訳しにくい。名詞になるとvolonté。vouloirは単に望む、したいと思ふといふことではなく、はつきりとした意志を伴ふ。大修館書店の『スタンダード佛和辭典』では「決意する、肚(はら)をきめる」といふ意味が最初に掲げられてゐる。