東京オリンピック開催の目的

The Economist誌が、日本政府がオリンピック開催に固執する理由についての記事を出した。The impulse behind Japan’s decision to go on with the Olympic gamesといふ題で、2022年に冬季オリンピックを開催する中国には負けたくないといふ気持ちなどの「愛国心」が、日本政府の態度の裏にある、といふ趣旨の記事だ。仮に、この記事が指摘するとほり、東京オリンピックを開催するのが日本の威信を高めるためだとすれば、かなり危ない賭けだと言はざるを得ない。
今回のオリンピックが、普通のオリンピックにはならないことは、既に決まつてゐる。外国からの観客は来ないからだ。「おもてなし」の相手がゐなくなつて仕舞つた。外国選手や支援スタッフにしても、観光地を訪れるのは論外で、東京の街をぶらつくこともままならない。レストランでもお酒が飲めるかどうか分からない。心から日本を楽しむことは難しいだらう。
ゲームそのものも、本来の形で行はれるとは言へない。選手の中には、感染予防のために充分な練習ができなかつた人も多いに違ひない。流行の状況やワクチンの入手可能性には国により大きな差があり、始まる前から公平な戦ひではなくなつてゐる。(国の豊かさなどによつて不公平が生じるのは今回に限つたことではないが。)
試合の前にコロナ陽性が見つかる場合もあるだらう。その結果、有力チームが敗退するといつた事態も予想される。選手も欲求不満になる場合が多いだらう。
オリンピックが感染拡大の場になる恐れも大きい。国内に変異株が持ち込まれるだけでなく、世界中から人が集まることで、新しい変異株が生まれるかも知れない。WHOは変異株を国名で呼ばないと決めたが、ローマ字や数字が並ぶ名前は分かりにくいので、もし東京で新種が出れば、「日本株」の略称で呼ばれることは避けがたい。日本で感染した人が帰国後に母国で感染を広げることも予想される。
要するに、東京オリンピックによつて、日本に対する尊敬や好感が増す可能性はかなり低く、逆に恨みや軽蔑を招く恐れは大きいのだ。公平なゲームの実現が難しいことや、感染拡大の恐れを理由に、中止を決める方が、日本の評判を落とすリスクは小さいのではないか。世界的な理解も得られるだらう。
「日本はオリンピックもまともに開催できないのか」と馬鹿にする国もあるだらうが、さうした国は、日本が何をしても文句を言ふのだ。IOCとの約束は守らないといけないと考へる日本人もゐるだらうが、馬鹿正直に約束を守らうとする日本を、世界の場では、理不尽な約束をさせられた交渉下手とか、上手く断る方策も考へつかない愚か者と見るのが普通ではなからうか。
しかし、オリンピックが中止されることはないだらう。それは、この国の指導者に勇気や自信があるからではない。むしろ逆だ。
この国は、動き出したものを止めることが苦手なのだ。誰もが「これでは仕方がない」と思ふほど事態が悪化しないと、中止決定できないのだ。新しいことを始めるのが苦手なのと同じだ。かうした時こそ、指導者の先見性や指導力が求められるのだが、今の日本の政治家にそれを期待するのは無理だらう。
残念ながら、それが今の日本の実力なのだ。

井筒俊彦『意識と本質』

使ふ側から見た思想の体系について考へた際に、中心には私がゐて、その私は心と身体から成るとしたのだが、心とはどのやうなものなのか、その正体を知ることは容易ではない。心については、心理学者や哲学者が様々な説を述べてゐる。その一つとして井筒俊彦の『意識と本質』を読んでみよう。

井筒俊彦といふ人

井筒俊彦(1914-1993)は、日本の言語学者、哲学者で、語学の達人として知られる。30程の言語に通じてゐたと言はれるが、それも英語やフランス語のやうな簡単な言葉だけではなく、アラビア語サンスクリット語、ロシア語などを含めた30言語なのだ。その語学力を駆使して、古今東西の思想を渉猟し、そこに共通するものを見つけ出さうとした。

生誕100年を記念して、かつて在籍してゐた慶應大学の出版会から全集が出されたが、これは日本語の著作だけで、この他に英文の論文が多数あり、その主なものの翻訳だけで7巻ある。同出版会が特設サイトを設けてゐて、その人柄を知りたい人には便利だ。

海外での活躍が長かつたこともあり、日本では余り知られてゐない面もあるが、この国には珍しい、世界的に評価の高い人文学者なのだ。

『意識と本質』といふ本

『意識と本質』は、1983年に出版された本で、「精神的東洋を求めて」といふ副題がついてゐる。1991年に岩波文庫に収められた。ここで紹介するのは、岩波文庫版。中でも、本の題名にもなつてゐる最初の論文を取り上げるが、その他に「本質直観 ― イスラーム哲学断章」、「禅における言語的意味の問題」、「対話と非対話 ― 禅問答についての一考察」の三つの論文も収められてゐる。

「意識と本質」には、「東洋哲学の共時的構造化のために」といふ副題が付いてゐる。

東洋でも ― いま仮に極東、中東、近東と普通呼び慣わされている広大なアジア文化圏に古来展開された哲学的思想の様々な伝統を東洋哲学という名で一括して通観すると ― 「本質」またはそれに類する概念が、言語の意味機能と人間意識の階層的構造と聯関して、著しく重要な役割を果たしている(7頁)

といふ気づきから、

東洋哲学全体を、その諸伝統にまつわる複雑な歴史的聯関から引き離して、共時的思考の次元に移し、そこで新しく構造化しなおしてみたい

といふ「当面の狙い」を持つて書かれた本だ。ただ、

取り扱うべきものが、その資料的側面だけから見ても非常に広汎にわたっているので、結局は、せいぜい共時的東洋哲学の初歩的な構造序論といった程度のものにしかならないだろう。とすれば、今これから書こうとしている小論自体は序論のそのまた序論というわけである。「意識と本質」という表題の示すとおり、人間意識の様々に異るあり方が「本質」なるものをどのようなものとして捉えるかを、ここでは特に「本質」の実在性・非実在性の問題を中心として考察してみたい。

と井筒は書いてゐる。「東洋哲学の共時的構造化」で井筒が目指してゐたものは、非常に大きな仕事で、これはその最初の一歩だといふ訳だ。

共時的東洋哲学とは

東洋哲学を「共時的」に見ることで、何を目指したのか。本書の後記には、次のやうに書かれてゐる。

東洋哲学 ― その根は深く、歴史は長く、それの地域的拡がりは大きい。様々な民族の様々な思想、あるいは思想可能体、が入り組み入り乱れて、そこにある。西暦紀元前はるかに遡る長い歴史。わずか数世紀の短い歴史。現代にまで生命を保って活動し続けているもの。既に死滅してしまったもの。このような状態にある多くの思想潮流を、「東洋哲学」の名に価する有機的統一体にまで纏め上げ、さらにそれを、世界の現在的状況のなかで、過去志向的でなく未来志向的に、哲学的思惟の創造的原点となり得るような形に展開させるためには、そこに何らかの、西洋哲学の場合には必要のない、人為的、理論的操作を加えることが必要になってくる。

そのような理論的、知的操作の、少くとも一つの可能性として、私は共時的構造化ということを考えてみた。この操作は、ごく簡単に言えば、東洋の主要な哲学的諸伝統を、現在の時点で、一つの理念的平面に移し、空間的に配置しなおすことから始まる。つまり、東洋哲学の諸伝統を、時間軸からはずし、それらを範型論的パラディグマテイクに組み変えることによって、それらすべてを構造的に包みこむ一つの思想連関的空間を、人為的に創り出そうとするのだ。

こうして出来上る思想空間は、当然、多極的重層的構造をもつだろう。そして、この多極的重層的構造体を逆に分析することによって、我々はその内部から、幾つかの基本的思想パターンを取り出してくることができるだろう。それは、東洋人の哲学的思惟を深層的に規制する根本的なパターンであるはずだ。(410-411頁)

亡くなる前年の1992年に書かれた「意識の形而上学」では、下のやうに述べられてゐる。

東洋哲学全体に通底する共時論的構造の把握 ―それが現代に生きる我々にとって、どんな意義をもつものであるか、ということについては、私は過去二十年に亘って、機会あるごとに繰り返してきたので、ここでは多くを語らない。要は、古いテクストを新しく読むということだ。「読む」、新しく読む、読みなおす。古いテクストを古い*1テクストとしてではなく····。

貴重な文化的遺産として我々に伝えられてきた伝統的思想テキストを、いたずらに過去のものとして神棚の上にかざったままにしておかないで、積極的にそれらを現代的視座から、全く新しく読みなおすこと。切実な現代思想の要請に応じつつ、古典的テクストの示唆する哲学的思惟の可能性を、創造的、かつ未来志向的、に読み解き展開させていくこと。

どの程度の成果が期待できるか、自分にはわからないが、とにかく私は、およそこのような態度で東洋哲学の伝統に臨みたいと考えている。(『中央公論』1992年5月号、301頁)

 本質に対する東洋哲学の基本的な姿勢

「意識と本質」では、本質といふ視点から、東洋哲学の構造化が図られる。あるものの本質とは、それが「何か」といふことだ。これは本だ、樹だ、海だ、声に出して言はなくても、私達は目の前に広がる世界の中に、様々な物を区別して(「分節化」して)生きてゐる。何だが分からないものが出現すると、サルトルの『嘔吐』の主人公のやうに、気持ちが悪くなる。

 しかし、これは表面的な意識の世界に囚はれてゐるからだ。

これに反して東洋の精神的伝統では、少なくとも原則的には、人はこのような場合「嘔吐」に追い込まれはしない。絶対無分節の「存在」に直面しても狼狽しないだけの準備が始めから方法的、組織的になされているからだ。いわゆる東洋の哲人とは、深層意識が拓かれて、そこに身を据えている人である。表層意識の次元に現れる事物、そこに生起する様々の事態を、深層意識の地平に置いて、その見地から眺めることのできる人。表層、深層の両領域にわたる彼の意識の形而上的・形而下的地平には、絶対無分節の次元の「存在」と、千々に分節された「存在」とが同時にありのままに現れている。

 常に無欲、以てその妙を観

 常に有欲、以てそのきょうを観る。*2

老子が言うのはそれである(『老子』一)。(16頁)

大乗仏教の空の思想は典型的な「本質」否定の考へ方だが、東洋思想の全てが「本質」を否定してゐるわけではない。

イスラーム哲学が区別する二つの「本質」

井筒は、「本質」を肯定する東洋哲学を、その「本質」が指すものによつて、三つに分けて論じるのだが、その前に、イスラーム哲学では二種類の「本質」を区別してゐることを紹介して、「本質」といふ言葉についての誤解を避けようとしてゐる。「これは何か」を示す「マーヒーヤ」と、「これであること」を指す「フウィーヤ」だ。

「マーヒーヤ」は、

現前するある個物(X)を指しながら、「これは何か」と問う、その問いにたいする答えとして与えられるもの、つまりXをしてXたらしめるX性であり、Xの永遠不変の自己同一性を規定するもの(41頁)

これに対して「フウィーヤ」は、

概念にはなんの関係もない、というより一切の言語化と概念化とを峻拒する真に具体的なXの即物的リアリティーである。(中略)「これであること」、いわば「これ性」を意味する。(42頁)

井筒の話は、「マーヒーヤ」と「フウィーヤ」の関係をどう考へるかをめぐつて、フッサール現象学芭蕉へと進むのだが、そこは省略して、本題である「本質」を肯定する東洋哲学の三つの立場について見ることとしよう。

第一の型:深層にある理としての本質

東洋哲学で「本質」を肯定する第一の型では、普遍的「本質」(マーヒーヤ)は実在するといふ立場を取るのだが、

しかしそれにすぐ続けて、実在するとはいっても、それは存在の深部に実在するのであって、存在の表面に現れているようなものではない、つまり我々の普通の経験において、表層的「······の意識」の「······」として認知される性質のものではない、と主張する。(72頁)

この第一の型の例として挙げられてゐるのが、中国宋代の理学だ。

中国宋代の儒者たちの理学も、「理」すなわち普遍的「本質」の探究である。彼らもまた、普遍的「本質」を真に実在するリアリティーと信じ、しかもそれを深層意識的に把握しようとする。(80頁)

 「本質」は深層意識にあるので、それに達するには訓練が要る。その意識訓練の方法が、「静座」と「格物窮理」(窮理)だ。

「静座」は心内のざわめきを鎮め、同時にそれと相関的に、心外すなわち存在界のざわめきを鎮める修行。「窮理」は、そのようにして次第に静まり澄みきった心の全体を挙げて経験的世界の事物を見詰めつつ、それらの事物の「本質」(複数)を一つずつ把握していき、或る段階まで来たとき、この「本質」追及のいわば水平的な進路を、突然、垂直的方向に転じて、一挙に万物の絶対的「本質」(単数)の自覚に到達しようとする「本質」探究の道。(82-83頁)

 万物の絶対的「本質」の自覚は、「豁然貫通」「脱然貫通」などと呼ばれる。

それは意識の、表層から最深層への飛躍突入であり、それはまた、存在表層に水平的に並ぶ事物の「理」の系列が、突然、垂直に方向を転じて存在深層に貫通し、存在のゼロ・ポイントに到達することでもある。存在のゼロ・ポイント、既に述べたように、それは、あらゆる経験的事物それぞれの「本質」を究極的に一に収斂し、しかもまた逆にそれらの「本質」を己れの自己分節として存在の経験的次元に成立される純形而上的「本質」にほかならない。すべての「本質」の究極の「本質」、「理」のまた「理」、「無極而太極」である。(93頁)

第二の型:根源的イマージュとしての本質

第二の型も、第一の型と同様に意識の深層に「本質」を探るのだが、

ここでは、すべて存在者の普遍的「本質」が、濃厚な象徴性を帯びたアーキタイプ、元型、として現われる。前にも全然別のコンテクストで言及したことのある、イスラーム哲学者イブン・アラビーの「有無中道の実在」やスフラワルディーの「光の天使」をはじめ、易の六十四卦、密教のマンダラ、ユダヤ教神秘主義カッバーラーの「セフィーロート」など、その例は多く、様々な形で東洋哲学の諸伝統を華やかに彩る。(73頁)

この第二の型は、シャマニズム、『荘子』などにも見られるが、かうした精神伝統を代表する人々にとつては、

吾々のいわゆる現実世界の事物こそ、文字通りの影のごとき存在者、影のまた影、にすぎない。存在性の真の重みは「比喩」の方にあるのだ。もしそうでないとしたら、「比喩」だけで構成されている、例えば、密教のマンダラ空間の、あの圧倒的な実在感をどう説明できるだろう。(203-204頁)

第二の型の本質は、「元型」として現はれるが、この「元型」は単なる抽象的な普遍者ではなく、「人間の実存に深く喰いこんだ、生々しい普遍者である。」

我々が常識的に現実とか世界とか呼んでいるものは、表層意識(A)の見る世界であって、それが世界の唯一の現われ方ではない。深層意識にはそれ独特の、まったく別の見方がある。深層意識の目には、表層意識を狼狽されるに足るような異様な形で、存在世界が現出する。つまり、さっき言ったように思想意識の存在分節が、表層意識のそれとは全然違う、ということだ。そして、この、深層意識独特の存在分節の基礎単位が「元型」イマージュである。(221頁)

井筒は、この「元型」イマージュと言語との関係を、空海ユダヤ教神秘主義カッバーラーの例を挙げて説明してゐる。

第三の型:表層で理知的に捉へた一般者としての本質

第三の型は、これまでの二つが深層意識的なものであつたのに対し、意識の表層を働かせて「本質」を捉へようとする。

目に見える、あるいは直接感覚的に認知できる個物の背後に、それらを超越する形而上的一般者を実在するものとして認めはするけれども、そのような普遍的「本質」を実際に形而上的体験を通じて直接無媒介的に捉えようとはしない。ただ理性的に、つまり表層意識的に、「本質」の実在を確認するにとどまる。そしてその上で、あるいはそれの構造を分析し、あるいはそこから出てくる理論的・実践的帰結を追求するのである。古代中国の儒学、特に孔子の正名論、古代インドのニヤーヤヴァイシェーシカ派特有の存在範疇論パ ダ ー ル タなど、その最も顕著な例である。(73頁)

西洋でのかうした考へ方の典型はプラトンイデア論で、それはソクラテスの「定義」追及を引き継いだものだが、井筒の次の指摘は重要だらう。

但し、ソクラテスの場合、求められるものは常に道徳的価値、人間の行為や性格の倫理的諸相の「本質」に限られていた。(295頁)

 この西洋のイデア論に東洋で対応するのが、孔子の正名論だ。

古代中国の代表的思想家、孔子、と古代ギリシャの哲人、プラトンとの間には、勿論、著しい相違がある。提起される哲学的問題も違うし、思惟方法も違う。だが、永遠不易の普遍的「本質」の実在性を信じ、それによって紛糾する感覚的事物の世界を構造化し秩序付けようとする根本的態度において、イデア論と正名論とは一である。(298頁)

 意識の構造モデル

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意識の構造モデル

 以上が、東洋哲学の「本質」肯定の三つの型だが、井筒は、第二の型の説明に際して、上図のやうな意識の構造モデルを提案してゐる(214頁)。

Aは表層意識、その下は全部深層意識で、B、C、Mに分かれる。最下点にあるのは「意識のゼロ・ポイント」。全ての分節の根源である無分節の境だ。これに続くCは無意識の領域。全体的に無意識ではあるが、B領域に近付くにつれて次第に意識化への胎動を見せる。B領域は「言語アラヤ識」の領域とされる。「言語アラヤ識」は、井筒の用語で、次のやうに説明されてゐる。

この領域には、まだ「本質」として定着できない、あるいは結晶しきれない、無数の浮動的な意味体が、結びつ解かれつしながら流れている。無意識奥底のこの紛糾の場において、唯識哲学のいわゆる存在「種子ビージャ」が形成されていく。そしてそれらの「種子」が、機会あるごとに潜勢態を脱して「転識」的意識の表面に現勢化し、そこに「本質」を作りだして経験的事物を分節する。(130頁)

 BとAの間に広がる中間地帯Mが、「想像的」イマージュの場所。B領域で成立した「元型」は、このM領域で、様々なイマージュとして生起し、そこで独自の機能を発揮する。

人の心に意識と無意識の領域があるといふことは、洋の東西を問はず認められてゐるだらう。ただ、意識と無意識がどのやうに係るのか、どのやうな構造を持つてゐるのかについては、議論が分かれるところだ。

この図が示してゐるやうに、東洋哲学では、意識には外からの刺激だけでなく、内から湧き出てくるものがあるとされる。それは、単なる夢想だとは限らない。ベルクソンは『物質と記憶』で、人間の知覚では外からの刺激と内から出てくるイマージュが輪のやうになつてゐると述べてゐる。ベルクソンが言ふイマージュは過去の記憶が外からの刺激に対応して意識に上つて来たものだが、外部の刺激や過去の記憶とは無関係に浮かんでくると思はれるイマージュもある。外界とは離れた、独自の論理を持つ心の世界が想定されてゐるのだ。

「意識と本質」の先に

以上、「意識と本質」で説かれてゐる東洋哲学の本質論を整理したが、上記の三つの型の他に、本質を全く認めない禅のやうな思想もある。長くなるので省略したが、この論文には禅の解説もあつて、非常に興味深い、それだけでも読む価値があるものだ。

井筒の最後の著作となつた「意識の形而上学 ― 『大乗起信論』の哲学」は、「東洋哲学覚書その一」とされてゐる。夫人による「あとがき」によれば、その後、言語阿頼耶識唯識哲学の言語哲学的可能性を探る)、華厳哲学、天台哲学、イスラームの照明哲学(スフラワルディー・光の形而上学)、プラトニズム、老荘儒教真言哲学と続いていく予定だつたさうだ(山崎達也氏の論文に拠る)。「意識と本質」は導入、あるいは総論で、その後に各論が展開される予定だつたといふことだらう。

それぞれの哲学について井筒の話を聞くことができないのは残念だが、「意識と本質」だけでも、多彩な東洋哲学を見渡すことができる。これを残して呉れたことに、感謝すべきだらう。

*1:太字は、原文では傍点。以下の引用でも、同じ。

*2:中公「世界の名著」の小川環樹訳では、「永久に欲望から解放されているもののみが『妙』(かくされた本質)をみることができ、決して欲望から解放されないものは、『』(その結果)だけしかみることができない」となつてゐる。「本質」といふ言葉が使はれてゐるので紛らはしいが、「妙」は真の姿、「」は上辺の見かけ、だと考へれば良いだらう。

斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』(II-1 経済:生活を支へる)

斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』を読んだ。いろいろな刺激に充ちてゐる本だ。

人新世」といふのは、Anthropoceneの訳語で、人類が地球環境に大きな影響を与へてゐることを踏まへて、新しい地質時代の名称として提案されてゐる言葉だ*1。かうした言葉が出てくる程、人間の活動によつて地球の様子が変はつてをり、その影響は気候変動などの形で身近に感じられるやうになつた。経済の仕組みを見直さなければならない、といふ意識も広がつてゐる。この本で斎藤氏は、かうした状況の中で、どのやうな選択肢があり得るのかを、晩年のマルクスの思想を参考にしながら、検討してゐる。

気候変動に対応する四つの選択肢

斎藤氏は、人新世に生きる私達の未来には四つの選択肢があると考へる。秩序を維持する中央の権力が強いか弱いか、平等か不平等かによつて区別される以下の四つだ。

1.気候ファシズム 権力が強く、不平等

2.野蛮状態 権力が弱く、不平等

3.気候毛沢東主義 権力が強く、平等

4.X(エックス) 権力が弱く、平等

1.気候ファシズムは、現状維持型で、気候変動を無視して経済成長を続ける道。当然、気候変動による被害も出るが、富裕層は何とか生き延びられるし、逆に、気候変動によつて生まれる新しい「ニーズ」は新ビジネスの種になる。

2.野蛮状態は、気候ファシズムの先にあるもの。環境難民が増え、食糧不足*2になれば、貧困層の反乱は避けられない。富裕層は力でそれを抑へようとするが、最終的には多勢に無勢で、強権的な体制は崩壊し、世界は混沌に陥る。誰も統治機構を信頼せず、自分の生存だけを考へて生きる、ホッブズの「自然状態」。

3.気候毛沢東主義は、野蛮状態を避けるために、自由市場、自由民主主義を排して、中央集権的な独裁国家トップダウンで気候変動対策を実施する体制。

4.X(エックス)は、強い国家に依存しないで、民主主義的な相互扶助により、気候危機に取り組むことで、公正で持続可能な未来を目指すもの。これが斎藤氏の提案する道だ。

資本主義では無理なのか

斎藤氏の本で注目すべきなのは、資本主義の体制では地球環境問題は解決できない、といふ主張だ。

 資本主義とは、価値増殖と資本蓄積のために、さらなる市場を絶えず開拓していくシステムである。そして、その過程では、環境への負荷を外部へ転嫁しながら、自然と人間からの収奪を行ってきた。この過程は、マルクスが言うように、「際限のない」運動である。利潤を増やすためにの経済成長をけっして止めることができないのが、資本主義の本質なのだ。

 その際、資本は手段を択ばない。気候変動などの環境危機が深刻化することさえも、資本主義にとっては利潤獲得のチャンスになる。山火事が増えれば、火災保険が売れる。バッタが増えれば、農薬が売れる。ネガティブ・エミッション・テクノロジーは、その副作用が地球を蝕むとしても、資本にとっての商機となる。いわゆる惨事便乗型資本主義だ。

Kindle版では位置No.1186/4274)

資本主義をどのやうに捉へるかによつて、この斎藤氏の主張には様々な反応が出てくると思はれるが、問はれてゐるのは、経済成長は善なのかといふ問題だとも言へるだらう。より多くの仕事があること、より多くの財・サービス(長いので、以下の文章では「商品」と呼ぶ。)が提供されることは、良いことなのか。

仕事は多い方が良いのか

今の日本では、仕事が多い方が良いと考へる人が大半だらう。仕事が無いと収入が無く、収入が無いと食べて行けないのだから、これは分業と市場経済を前提とすれば、当然な意見だ。しかし自給自足をしてゐる人には、同じ物が得られるのであれば、仕事は少ない方が良いのかも知れない。耕運機で畑仕事に必要な時間が半分になれば、残りの時間はのんびりすることもできるし、家族で遊びにも行ける。(勿論、耕運機や燃料を買ふためにお金は必要なのだが。)

企業にとつても、仕事は多い方が良い。利益が増え、配当が増えて株主が喜ぶし、給与が増えれば従業員も喜ぶ。将来の成長のために投資もできる。しかし、この企業が提供する商品に対する需要は無限ではないので、仕事量を増やすにも限界がある。供給量が増えるにつれて、他社との競争はどんどん厳しくなり、利益は減ることとなる。

これまでは、技術革新によるコストの低下で、新しい需要が掘り起こされて来たが、地球環境問題は、さうした拡大路線が転機に来てゐることを意味する。

商品は多いほど良いのか

手に入る商品が多いほど人々は幸せになる、といふのが一般的な考へ方だらう。しかし、少なくとも先進国の一部では、商品が多すぎて、満足感が逆に下がるといふ問題も生じてゐる。

そもそも、一人の人間が食べることができる食事の量には限りがある。一度に何着も服が着られる訳ではない。そして何より、楽しむには時間が必要だ。また、楽しむことにも、学びが要る。同じ本を読み、絵画を見、同じ音楽を聴いても、その人が持つ素養によつて、得られる楽しみには大きな差がある。先進国では、それぞれの商品を十分に楽しむには、一生かけても足らない程のものが、既に存在してゐると言へるだらう。

選択肢が多くなることは良いことだが、余り多くなると、目移りがするし、自分が得たものと手に入れられないものとを比べると、後者の量が大きくなるだけ、不満が高まるといふ面もある。

さらには、斎藤氏が指摘してゐるやうに、これらの商品を提供するために、人々がどのやうに働いてゐるかが問はれるべきだ。楽しむ人がゐなければ、楽しむ時間がなければ、どれだけ商品を増やしても、無駄なのだから。

「脱成長」のあり方

かうした点を考へると、経済成長は絶対的な善とは言へなくなる。1970年代に「成長の限界」といふ問題提起がなされたやうに、経済成長を見直すべきとの主張は過去にもあつたが、地球環境問題により、いよいよ「脱成長」が欠かせなくなつて来てゐるのかも知れない。斎藤氏は、その「脱成長」を次のやうに定義してゐる。

アンチテーゼとしての脱成長は、GDPに必ずしも反映されない、人々の繁栄や生活の質に重きを置く。量(成長)から質(発展)への転換だ。プラネタリー・バウンダリーに注意を払いつつ、経済格差の収縮、社会保障の充実、余暇の増大を重視する経済モデルに転換しようという一大計画なのである。
Kindle版では位置No.1382/4274)

ここで斎藤氏は、脱成長と資本主義は本質的に相容れないと考へる。利潤追求、市場拡大、矛盾の外部への転嫁、労働者と自然からの収奪は、資本主義の本質だと見てゐるからだ。

それに代はる道として斎藤氏が提唱するのが、第四の選択肢Xである。具体的には、知識、自然環境、人権、社会など、資本主義で解体されてしまつた<コモン>を意識的に再建するコミュニズム*3

斎藤氏は、この本の後半で、晩年のマルクスが、進歩史観を捨てたと言ふ。そして、経済成長しない共同体社会は、持続可能で、平等な人間関係と自然な物質代謝を実現する、と考へるに至つた、と述べてゐる。人新世時代に必要なコミュニズムの思想は、ソ連型のコミュニズムではないことは勿論、生産力至上主義をも脱したコミュニズムであり、晩年のマルクスも、さうした考へに至つてゐた、といふ訳だ。

マルクス主義が見直される背景

斎藤氏の意見もさうだが、近年、欧米でもマルクス主義が見直される傾向にある。その背景には、グローバル化や先進国での新自由主義によつて貧富の格差の拡大などの問題点が顕在化してゐることがあるだらう。

自由主義経済によつて生じる貧富の格差や環境汚染などの問題に対応するために、先進国では社会福祉の充実、累進的な所得税の導入、環境規制などの対策が講じられて来た。かうした対策で資本主義は安定したかに見えたが、グローバル化によつて事情は大きく変はつた。

競争は地球規模で行はれることとなつたが、そこに参加する企業が置かれた環境は、国によつて大きく異なる。賃金水準、労働規制や環境規制などの法制度、国営企業の役割などが、さうした環境の違ひの例だ。先進国の企業は、グローバル化による新しい競争条件に対応するために、低賃金の国に生産を移したり、材料や部品を国内ではなくコストの安い外国から調達しようとする。その結果、先進国の労働者の賃金は上がらず、海外展開ができない企業は廃業に追ひ込まれる。中流階級が崩れ始める。廃棄物は、環境規制が緩い国に流れることとなつた。

先進国から発展途上国に生産が移ることは、世界規模での経済水準の平準化が進むことで、望ましいといふ見方もできる。ただ、未成年が過酷な労働を強ひられたり、環境破壊が進むなどの、無視できない問題もある。これらの問題に対応するためのグローバルな統治機構は存在せず、主権を主張する国々の合意によつて作られたWTOなどの国際機関が、貿易に関するルールを決め、守らせる役割を負つてゐるのだが、主要国間の利害が対立して、有効に機能しない場面が増えてゐる。国際的には、「野蛮状態」が生じようとしてゐると言へるだらう。

地球環境問題への対応を考へるのに有益な本

斎藤氏の主張する第四の道「脱成長コミュニズム」で、「野蛮状態」や「気候毛沢東主義」を防ぐことができるのだらうか。

氏は、晩年のマルクスの構想を、1)使用価値経済への転換、2)労働時間の短縮、3)画一的な分業の廃止、4)生産過程の民主化、5)エッセンシャル・ワークの重視、の5点にまとめて、これらが第四の道を実現するための手段であると言ふ。

本当に、それが実現できるのか、いや、その前に、そもそも「脱成長」が望ましいのか、議論は尽きないだらう。また、議論だけで、真実が分かるといふものでもない。将来を正確に予測することなど、できないのだから。逆に言へば、さうした見通しが不透明な状況だからこそ、これから目指すべき目標をしつかりと決めて進む必要があるのだ。

斎藤氏の意見には多くの反論があるだらうが、さうした人達も、氏が掲げてゐる資本主義の問題点について、何らかの回答を示す必要があるだらう。この本では、「脱成長」に関連する内外の主な論者の意見が紹介されてゐて、参考文献も充実してゐるので、世界でどのやうな議論が行はれてゐるのかを知るのに、とても便利だ。賛成するにせよ、反対するにせよ、一読に値する本だと思ふ。

避けられない日本の「脱成長」

私見では、「脱成長」は日本にとつて避ける事のできない問題だ。労働人口の減少とエネルギーの制約で、早晩、日本のGDPは減少に転じざるを得ないからだ。労働人口の減少については、AI導入に拠る生産性の向上や外国人労働者の増加で対処できるといふ見方もあるだらうが、外国人労働者を増やした欧米諸国の経験をみてゐると、楽観的にはなれない。エネルギー問題については、原子力発電に頼るといふ、典型的な「後は野と成れ」型の「解決策」を諦めるとすれば、エネルギーコストの大幅な上昇は不可避だ。

仮に、卑見が正しいとすれば、今、考へておくべきなのは、どのやうに「脱成長」を実現するか、だらう。GDPが下がり続ける社会で、企業はどのやうに活動するのか、構造変化で必要となる労働の移動のために、政府としてどのやうな策を講じるべきなのか、これからの公共事業で何を整備すべきなのか、等々。

いづれにしても、今まで通りのやり方ではやり過ごせない時代になつてゐることは確かなので、従来の枠に囚はれず、様々な可能性を議論すべきだらう。

*1:この本では「ひとしんせい」と仮名が振られてゐるが「じんしんせい」といふ読み方もある。

*2:先日、NHKスペシャルで、「2030 未来への分岐点 (2)「飽食の悪夢〜水・食料クライシス〜」」といふのを放映してゐた。食糧危機は、他人事ではない。

*3:斎藤氏は、このあたりの議論を、スラヴォイ・ジジェクの主張を参考にしながら進めてゐる。

ケインズ『孫たちの経済的可能性』(II-1 経済:生活を支へる)

「経済問題は解決する」との予想

ケインズ(1883-1946)が、1930年に『孫たちの経済的可能性』といふ文章を書いてゐる。元々はマドリッドで行はれた講演を文章化したもので、ネットで原文と、山形浩生氏による翻訳*1を見ることができる。

ケインズはこの中で、講演の100年後の2030年には、生産性の向上により、人々は週に15時間、1日に3時間働けば生活できるやうになるだらうと述べてゐる。生活に必要なものをどのやうにして手に入れるかといふ経済の問題は、大きな戦争や人口の大幅な増加が無ければ、100年で解決される、あるいは解決の見通しができる、と言ふのである。2030年まであと10年足らずだが、とても3時間労働の社会は実現しさうもない。ケインズは何を間違へたのだらうか。

なぜ予想は外れたか

櫨浩一氏による東洋経済ONLINEの記事では、以下のやうな理由が挙げられてゐる。

  1. 所得の上昇に伴って、われわれが考える「生活に必要なもの」の水準も高まったこと
  2. 「最低限の生活」をしようと思ったとしても、「高級なもの」を購入せざるをえず、最低限度の生活をするコストが上昇してしまっていること
  3. 基本的な生活の改善速度が低下している一方で、人間の高度な欲求の充足度は急速に高まっていること
  4. 所得や富の分配に偏りがあること

櫨氏はあまり強調してをられないが、四番目に挙げられてゐる所得の分配が、そして、所得が労働の対価であるといふ状態(「働かざる者喰ふべからず」)が基本だとすれば、労働の分配がうまく行はれてゐないことが、根本的な原因ではないだらうか。生産性の向上が、労働時間の短縮ではなく、減少した仕事の奪ひ合ひといふ結果を生んでゐるのだ。仕事の奪ひ合ひは、国家間でも、企業間でも、個人間でも起きてゐる。

なぜ労働の分配が進まないか

本来であれば、生産性の向上によつて、世界の人々が必要とする財・サービスの生産のために必要な労働量が減つてゐるのだとすれば、その分だけ、皆が働く時間を減らして、余暇を楽しめば良いはずだ。

しかし、企業間の競争が前提となつてゐる社会において、実際に、生産性の向上が、労働者の削減(それに伴ふ失業の増加)ではなく、労働時間の短縮につながるためには、労働時間、賃金、労働環境などに関する社会的な規制が必要である*2。先進国では、かうした制度により企業間の競争に一定の枠組を設けることで、生産性向上の恩恵が広く行き渡る工夫がなされて来た。

また、働くことが好きな人は、好きなだけ働けば良いが、所得はある程度を超えると働いても増えないやうにして、その分を他の人達に配分することにすれば、好きで働く人によつて他の人達の仕事=所得が「奪はれる」ことはない。先進国では普通になつてゐる所得税累進課税は、さうした仕組みだと見ることができる。

しかし、この種の仕組みがうまく働くためには、経済圏全体でこれを採用する必要がある。貿易や投資の自由化によつて世界全体が一つの経済圏になると、世界のすべての国々が、協調して採用しなければならない。

ところが、実際に起きてゐるのは、主要国間の「経済戦争」だ。主要国が直接、物理的に争ふ戦争は、幸ひにして第二次大戦後には起きてゐないが、大国間の主導権争ひは経済の分野で続いてゐる。現在では、米国と中国との関係が典型的だらう。生産性の向上を労働者の待遇改善につなげるために必要な制度の導入について、現状では、主要国間で何らかの合意が成り立つ見込みは小さいと言はざるを得ない。

世界的な合意は欠かせない

しかし、現状では多くの困難があるとしても、経済活動の在り方について、世界的な合意がなされることは、私達の幸せのためには不可欠だ。何の制約もない国家間の経済競争が続けば、過剰生産、独占、失業といつた様々な問題が避けられないのだから。

また、資源制約の観点からも、経済的な「軍拡」を放置することはできなくなつてゐる。漁業資源の枯渇は、すでに大きな問題になつてゐる。地球環境維持の観点から、エネルギーの開発や利用についても、国際的な合意が求められるやうになつて来た。

競争による刺激は、文明の発達に欠かせない要素ではあるが、この地球といふ限られた場所で人々が共存して行くためには、共通的な制約を課すことが必要だ。かうした認識が広まり、国際的な合意が生まれるやう働きかけることが、日本の重要な役割ではないかと思ふ。

 

*1:このケインズの文章の翻訳は、ケインズ全集などの形で出版されてゐるが、翻訳家の山岡洋一(1949-2011)が厳しい評価を下してゐる。

*2:生産性の向上で価格が下がれば、需要も少しは増える。しかし、先進国においては基本的な需要はほぼ満たされてゐると考へて良いだらう。また、生産性の向上で、新たな需要が喚起されることもあり得る。しかし、現代人が一番足らないと感じてゐるものは、(お金を除けば)「時間」ではないだらうか。労働時間が短くならなければ、新たな需要を生むことは難しいだらう。

これからの日本に必要な哲学とは(II-2 政治:枠組を築く)

中江兆民は、「わが日本古より今に至るまで哲学なし」と嘆いたが、どのやうな哲学が必要なのかについては、詳しく述べる時間を持てなかつた。これからの日本に必要な哲学とはどのやうなものなのだらうか。

哲学とは

哲学とは、辞典によれば「統一的全体的な人生観・世界観の<理論的基礎>を提供」*1するものだ。フランス語の辞書では、「そもそもの原因、絶対的な事実、人間の価値の基礎に関する研究の総体で、問題を最も普遍的な段階から見ようとするもの」といふのが、現代的な「哲学」philosophieの意味だとされてゐる*2。ものごとの基本のところに戻つて考へる、より普遍的な見方を探る、といふのが哲学の方法だと言へるだらう。

なぜ今の日本に哲学が必要か

なぜ、今の日本に哲学が必要なのか。それは、日本が大きな変革期にあるからだ。どうすれば幸せになれるのか。何のために働くのか。なぜ経済成長は必要なのか。国の役割とは何か。変革期には、かうした問ひについて、国民が共通の理解を持つことが欠かせない。大きな目標のために、小さな目標を諦めることが避けられないからだ。変化に必要となる「小さな」費用を避けようとすると、現状維持しかない。或いは、声の大きな者が勝つ。残念なことに、今の日本で「声が大きい」のは、金持ち*3大衆迎合政治家、所謂ポピュリストだ。しかし、私達が目指すべきなのは、正しい社会、自由で、公平で、思ひやりのある社会ではないだらうか。さうした社会を実現するためには、私達にとつて何が大切で、そのためには何を諦めるかを考へ直す必要がある。哲学の仕事は、この見直しを支へることだらう。

なぜ日本で哲学が育たないのか
日本でかうした哲学が育たないのは、何故だらうか。この問題も、専門家の間には様々な議論があるに違ひないが、日本人が回りくどいことが嫌ひで、理屈に不信感を持つてゐるからではないだらうか。また、和を以て貴しと為す国柄のために、原理原則を振り回すことが嫌はれるのだと思ふ。
哲学は、ものごとの「理論的基礎」を考へるものなので、目の前の問題の役には立たない。また、普遍性を目指すので、話が理屈ぽくなる。しかし、理屈はどうにでも付けられる、といふことを日本人はよく知つてゐる。理屈を並べる人間は、何か怪しい。騙さうとしてゐるのではないか。これが普通の日本人の感じ方だ。
また、哲学は今ある秩序を疑ふものだから、和を以て貴しと為す国柄では、徒らに異論を述べて、落ち着いてゐる世の中を乱すものと見えることも、好まれない一因だらう。
他方で、哲学を提供する側にも大きな問題がある。
哲学といふ言葉そのものが明治時代に作られたことから分かるやうに、哲学は、日本人が自分達の中から生み出したものではなく、外から来たものだ。明治の人達が一所懸命に勉強したのだが、勘違ひも少なくなかつた。また、持ち込まれた哲学は、中でも難しいドイツ観念論が中心で、それが分かりにくい日本語に訳されたといふ歴史的な事情も、哲学の取つつきにくさを増しただらう。
その上、最近の哲学は、多岐にわたり、どれも面倒な理屈に充ちてゐる。相対主義懐疑主義に陥つてゐて、何を言はうとしてゐるのか、皆目、見当がつかないものが多い。分かりにくいことが高尚だといふ勘違ひは、どの国にもあるのかも知れないが、日本では、特に目立つやうな気がする。これでは、哲学が見放されるのも、無理はない。
竹田青嗣『哲学とは何か』
そんな思ひでモヤモヤしてゐた或る日、竹田青嗣氏の『哲学とは何か』を見付けた。これは、画期的な本だ。懐疑主義を拭ひ去り、新しい合意を生み出すための道筋を示すといふ、今の日本に一番必要とされる哲学の本だと言へるだらう。
竹田氏は、認識、存在、言語に係る三つの謎を中心に哲学の歴史を振り返り、ニーチェフッサールが、これらの謎を解明したことを示す。そして、私達が持ち得る世界についての確信を、以下の3つに整理する。
  • 個的な確信 個人的
  • 共同的な確信 二人以上に共有されるが範囲に限界あり 例:宗教
  • 普遍的な確信 誰もが共有し得る 例:数学、自然科学
さらに、氏が「本質領域」と呼ぶ本質・意味・価値の領域において、いかにして普遍的確信が可能となるかを、フッサールの「本質観取」といふ手法や、氏が「条件法」と呼ぶ議論の手法を挙げて、説明する。「条件法」といふのは、多様な価値を認める社会において、価値観の対立を超えた合意を得るための手法だ。
普遍戦争を抑止しかつ人々の自由を可能にするために、どんな社会が必要なのか、と問えば、その答えには理想理念や相対主義的主張が入り込む余地がなくなる。すなわち、哲学の歴史が示唆しているように、「誰にとってもこう考えるほかはない」答えとして、「自由な市民社会」という原理が提示されるのだ。
竹田青嗣氏の『哲学とは何か』については、いろいろと批判もあるだらう。フッサールの解釈が正しいかどうか、ポストモダン思想に対する厳しい批判は的を射てゐるか、等々。しかし、今の時代に哲学が何を目指すべきか、哲学を学ぶことで何が得られるかについて、大きな方向を示す本は、それだけで貴重だ。揚げ足取りをするのではなく、建設的な議論が生まれることを期待したい。
この本の刊行記念セミナーをYoutubeで見ることができる。最初の20分くらいで、竹田氏ご本人による本の内容の簡単な紹介があるので、これだけでもご覧になることをお勧めする。
 

 

*1:岩波哲学・思想辞典の「哲学」から。その抜粋を下に載せる。

哲学 1.西洋 哲学の語は、明治7年(1874)に著された『百一新論』のなかで、西周が西洋語のフィロソフィの訳語として新たに造語した言葉である。······幕末から明治維新にかけての日本の近代化の過程のなかで、コントの<実証主義>の考え方に依拠しながら、西は、百の教えを一つに統合し、一つの原理にもとづいて諸学の全体化を目指すような根本知としての哲学が、文化百般の中核を成さねばならないと考えた。それ以来、文化・社会全般にわたり、人間の歴史形成の営みの根本を成すものとして、統一的全体的な人生観・世界観の<理論的基礎>を提供すべき哲学的知が、近代日本においても、東洋思想の伝統にもとづきつつ、西洋哲学の盛んな摂取を介して、自覚的に探究されるようになり、現在に至っている。
······その本来の語義が確立されたのは、なによりもソクラテスプラトンにおいてであった。ソクラテスは<不知の知>の自覚を強調し、それを受けてプラトンは事物の真理にほかならぬ<イデア>の探究を<愛知>の目標とした。ここにおいて哲学は<真理への愛>として確立された。
······その結果、現代においては、科学知のほかに特有の哲学知を認めず、哲学は科学知の整理の役しか担わないとする極端な見解すら現れた。けれども今日においては、科学知のみならず、人間の行為や実践、さらには文化・歴史・社会のあらゆる現象の根本をその本質において問い直す哲学的洞察がいたるところで要請されていると言わねばならない。〔渡邊二郎〕

*2:Le Petit Robertによる。原文は、Ensemble des études, des recherches visant à saisir les causes premières, la réalité absolue ainsi que les fondements des valeurs humaines, et envisageant les problèmes à leur plus haut degré de généralité.

*3:金持ちが悪い、と言ふのではない。まともな方法で金持ちになつた人達は、世の中が求める物や仕組みを考へ出し提供することでお金を手にした人達なのだから、むしろ、世の中の役に立つてゐるはずだ。とは言へ、世の中は金持ちだけで成り立つてゐるわけではない。貧乏人がゐるからこそ、金儲けもできる。そして、貧富の差が広がり過ぎると社会が壊れ、金儲けも出来なくなる。今日の社会では、この点を忘れてゐる金持ちが少なくないことも否めない。

『歴史とは何か』(II-3 歴史:過去を伝へる)

歴史教育の問題は、近隣諸国との関係もあつて、なかなか難しい。最近では、「自虐史観」に反発して、日本人が自分の国を誇りに思へるやうな歴史を書かうといふ動きもあり、『日本国紀』はよく売れたらしい。他方で、この本には様々な批判も出てゐるやうだ。何が正しい歴史なのか。日本人が学ぶべきなのは、どのやうな歴史なのだらうか。

E.H.カー『歴史とは何か』

そこで、E.H.カー(1892-1982)の『歴史とは何か』によつて、考へを整理してみよう。

 カーは先づ、歴史哲学に大きな貢献をしたイギリスの思想家コリングウッド(1889-1943)の歴史観を次のやうに要約する。

歴史哲学は「過去そのもの」を取扱うものでもなければ、「過去そのものに関する歴史家の思想」を取扱うものでもなく、「相互関係における両者」を取扱うものである。(この言葉は、現に行われている「歴史」という言葉の二つの意味――歴史家の行なう研究と、歴史家が研究する過去の幾つかの出来事――を反映しているものです。)「或る歴史家が研究する過去は死んだ過去ではなくて、何らかの意味でなお現在に生きているところの過去である。」しかし、過去は、歴史家がその背後に横たわる思想を理解することが出来るまでは、歴史家にとっては死んだもの、つまり、意味のないものです。ですから、「すべての歴史は思想の歴史である」ということになり、「歴史というのは、歴史家がその歴史を研究しているところの思想が歴史家の心のうちに再現したものである」ということになるのです。歴史家の心のうちにおける過去の再構成は経験的な証拠をたよりとして行われます。しかし、この再構成自体は経験的過程ではありませんし、事実の単なる列挙で済むものではありません。むしろ、再構成の過程が事実の選択と解釈とを支配するのです。すなわち、正に、これこそが事実を歴史的事実たらしめるものなのです。(26-27頁)

これを元に、カーは「いくつかの忘れられた真実」を導き出す。

第一に、歴史上の事実は純粋な形式で存在するものでなく、また、存在し得ないものでありますから、決して「純粋」に私たちへ現われて来るものではないということ、つまり、いつも記録者の心を通して屈折して来るものだということです。したがって、私たちが歴史の書物を読みます場合、私たちの最初の関心事は、この書物が含んでいる事実ではなく、この書物を書いた歴史家であるべきであります。(岩波新書 27頁)

コリングウッドの主張の第二点は、もっと判り易いことで、歴史家は、自分が研究している人々の心を、この人々の行為の背後にある思想を想像的に理解する必要がある、ということであります。·····この十年間*1に英語使用諸国が生んだソヴィエト連邦関係の文書の大部分、また、ソヴィエト連邦が生んだ英語使用諸国関係の文書の大部分が無価値なのは、相手方の心の動きを想像的に理解するということのイロハにも達し得ず、その結果、相手方の言葉や行動がいつでも悪意に満ちた、非常識な、偽善的なものに見えるようになっているからです。(30-31頁)

第三の点は、現在の眼を通してでなければ、私たちは過去を眺めることも出来ず、過去の理解に成功することも出来ない、ということであります。歴史家は彼自身の時代の人間なのであって、人間存在というものの条件によってその時代に縛りつけられているのです。·····歴史家の機能は、過去を愛することでもなく、自分を過去から解放することでもなく、現在を理解する鍵として過去を征服し理解することであります。(31-33頁)

これに続いて、カーはコリングウッド歴史観が招く恐れのある危険として、懐疑主義と「プラグマティズム*2を挙げる。歴史はどこから誰が見るかによつて見え方が違ふことは確かだが、懐疑主義に陥つてはならない。

見る角度が違うと山の形が違って見えるからといって、もともと、山は客観的に形のないものであるとか、無限の形があるものであるとかいうことにはなりません。歴史上の事実を決定する際に必然的に解釈が働くからといって、また、現存のどの解釈も完全に客観的ではないからといって、どの解釈も甲乙がないとか、歴史上の事実はそもそも客観的解釈の手に負えるものではないとかいうことにはなりません。(34-35頁)

しかし、より大きな危険は、「プラグマティックな」歴史観だ。

過去の問題を研究するのは現代の問題の鍵として研究するのだということになりましたら、歴史家は全くプラグマティックな事実観に陥り、正しい解釈の規準は現在のある目的にとっての適合性であるという主張になってしまうのではないでしょうか。夙にニーチェはこの原則を言明いたしました。「われわれの考えでは、ある意見が間違っているというのは、何もこの意見に対する反駁にはならない。······問題は、それがいかに生命を励まし、生命を保存し、種族を保存し、更に種族を創造するかということである。」(35頁)

それでは、あるべき歴史家の仕事とはどのやうなものか。

事実を尊重せねばならぬという歴史家の義務は、その事実が正確であることを確かめるという義務に尽きるものではありません。彼は、自分が研究しているテーマや企てている解釈に何らかの意味で関係のある一切の事実――知られているものであろうと、知られ得るものであろうと――を描き出す努力をせねばならないのです。······私の確信するところですが、歴史家という名に値いする歴史家にとっては、経済学者が「インプット」および「アウトプット」と呼ぶような二つの過程が同時に進行するもので、これらは実際は一つの過程の二つの部分だと思うのです。みなさんが両者を切り離そうとし、一方を他方の上に置こうとなさったら、みなさんは二つの異端説のいずれかに陥ることになりましょう。意味も重要性もない糊と鋏の歴史をお書きになるか、それとも、宣伝小説や歴史小説をお書きになって、歴史とは縁もゆかりもないある種の文書を飾るためにただ過去の事実を利用なさるか、二つのうちの一つであります。(36-38頁)

かうしたカーの意見は、中庸を得た、良いものだと思ふ。

ゲンロンカフェのイベント「平成の鬱と新しい知性の実践」で、與那覇潤氏が、ポストモダンで主体性と客観性といふ言葉が言へなくなつた、といふ趣旨の発言をしてゐた。ポストモダンを経た眼からすれば、カーの発言は古き良き時代のものと見えるのかも知れない。しかし、主体性とか客観性とかを考へない思想など、あり得るだらうか。ポストモダンの思想については良く分からないが、客観性を語ることができないといふのは、ゲーテの言葉が応用できる状況ではないだらうか。

後退と解体の過程にある時代というものはすべていつも主観的なものだ。が、逆に、前進しつつある時代は常に客観的な方向を目指している。現代はどう見ても後退の時代だ。というのも、現代は主観的だからさ。(エッカーマン『ゲーテとの対話』1826年1月29日)

「 国民を鼓舞する歴史」についての懸念

最近インターネットを見てゐると、太平洋戦争は日本の侵略戦争ではなく、蒋介石(1887-1975)に騙されたのだとか、ABCD包囲網により孤立し生き延びるために已む無く立ち上がつたのだとか、アジアの植民地を解放するための戦ひだつたのだ、とかいつた類の本の宣伝を見かけることが多い。かうした本を書く人達は、ニーチェ*3に、事実かどうかではなく、「いかに生命を励ま」すか「種族を保存」するかが大切だと考へてゐるのだらうか。

しかし、仮に、何よりも生命を励まし、種族を保存することを目指すとしても、蒋介石に騙された、といふ類の主張が、日本人に自信を持たせたり、日本といふ国がこれからの国際社会の中で生き延びるために役に立つたりするのだらうか。とても、そうは思へない。

国際社会には、中央政府はないので、国と国の間の問題を解決するには、当事国の間で話合ふか、第三国や国際機関に調停を頼むか、それで解決しなければ、実力で勝負するかしか手段はない。実力は、禁輸などの経済的な措置の場合もあれば、武力に訴へる場合もある。いづれにしても、自国に有利な結果を得るべく、あらゆる手段を尽くすといふのは、国としては当然のことだ。その中には、国際世論を味方につける、といふ手段もあり、重要なものの一つだ。

蒋介石にしてみれば、日本の中国における行動が不当なものだと米国等の第三国に宣伝するといふのは、当然の行動であり、何も狡猾なものではない。むしろ、かうした視点を持たず、国際的に孤立する日本の方が愚かだ、といふのが国際的には常識的な見方と言ふべきだらう。それを喧伝することが日本人に自信を持たせたり、日本の国際的な地位を高めたりすることになるのだらうか。

また、かうした「国民鼓舞型」の歴史を学ぶ日本人は、どのやうな意見を持つやうになるだらうか。蒋介石は狡い奴だ、米国は力任せで怪しからん、最初に植民地を作つたのは欧米諸国ではないか等々、日本と(蒋介石が落ち着いた)台湾や米国等の同盟国との関係を悪くするやうな意見ではないか。さう考へると、この種の歴史を広めようとしてゐるのは、日本民族の存続を目指すどころか、日本と台湾や米国との関係悪化といふ日本の国益に反する動きを狙つてゐる勢力ではないか、といふ気さへして来る。

鏡としての歴史

歴史を学ぶのは何の為か。他国への宣伝も一つの目的かも知れないが、基本は、自分の国を知るといふことだらう。自分の生まれ育つた国がどのやうな国なのかを知ることは、人の義務だと言つても良い。国の歴史を学ぶのは、そのために欠かせない手段の一つだ。カーは『歴史とは何か』のなかで、次のやうに述べてゐる。

歴史から学ぶというのは、決してただ一方的な過程ではありません。過去の光に照らして現在を学ぶというのは、また、現在の光に照らして過去を学ぶということも意味しています。歴史の機能は、過去と現在との相互関係を通して両者を更に深く理解させようとする点にあるのです。(97頁)

人には誰でも長所、短所があるやうに、国にも美点と欠点がある。その両方を知るといふことが、自分を知り、国を知るといふことだ。良いところだけを見る、嫌な部分からは目を背けるといふのは、子供染みた行ひだ。さうした姿勢からは本物の自信は生まれないし、他国からの信頼も得られないだらう。

 

*1:この本の原本は1961年に出版されてゐる

*2:本来のプラグマティズムは、カーが考へてゐるやうな、役に立てば真実だらうと虚偽だらうと何でも良い、或いは、役に立つものこそが真実だ、といつたご都合主義の主張ではないと思ふ。

*3:カーが引用してゐるニーチェの言葉は、『善悪の彼岸』の第一章三節に出て来るものだが、カーが解釈してゐるやうに、目的のためには真偽を問はない、といふ単純な話ではないと思ふ。しかし、ニーチェは取扱ひに注意を要する思想家なので、カーのような解釈が出て来ることは不思議ではない。

與那覇潤『中国化する日本』(II-3 歴史:過去を伝へる)

與那覇潤氏の『中国化する日本』を読んだ。2011年に出され、評判になつた本で、10年近く遅れての読書となり、今更の感はあるが、非常に面白かつたので、感想を書いて置く。宋の時代に封建制から郡県制に移行し、皇帝独裁政治と経済社会の自由化を実現した中国、その意味で、近代化、グローバル化の先駆者となつた中国に対して、これに習はうとした平氏が源氏に敗れ、独自の道を歩むこととなつた日本、といふ対比は、新鮮かつ説得的だ。

何故「失はれた20年」か

那覇氏の説は、日本経済の現状を考へる際にも、参考になる。

1980年代に「ナンバーワン」と持て囃された日本経済が、何故、20年あるいは30年に及ぶ長い低迷の時代を経験することになつたのか。私は、組織を越えた人の移動が少ないといふことが主因だ考へて来た。それは終身雇用といふ慣行によく現れてゐるのだが、終身雇用は大正末期から昭和初期に成立したと言はれてをり、これが多少とも変はれば日本経済も元気を出すかも知れない、といふ漠然とした期待を持つてゐた。それが、この本では、日本のグローバル化(與那覇氏は「中国化」といふ言葉でこれを指してゐるのだが)の道を閉ざしたのは鎌倉幕府だとされてゐる。問題の発端は遥か遠くに遡るもので、それだけ根が深いといふことになる。

当時は優れてゐるものとされた日本の仕組みが変はつた訳ではない。むしろ、変はらないことが問題だつた。自らは変はつてゐないのに、かつての勢ひを失つたのは、(バブル崩壊負の遺産を背負つた、高齢化により人口ボーナスが失はれた、といつた内在的な要因はあるとしても)日本経済を取り巻く環境の方が大きく変はつたことが主因だらう。具体的には、冷戦の終結によつて中国が世界市場に参入し、グローバルな市場が形成されたこと、インターネットに代表される情報通信技術の進歩によつて、国際的な通信のコストが急激に低下したこと、がその主な変化だ。

この新しい世界で勝負するには、国際的な調達によりコストを下げ、世界市場を相手にしたマーケティングで規模の経済を実現する必要がある。国内の下請け企業とすり合はせながら部材を調達し、終身雇用の人材を抱へ、国内市場を基盤として海外に展開するといふ戦略を基本としてきた日本企業は、かうした変化への対応が大きく遅れた。日本企業のビジネスモデル自体がガラパゴス化したのだ。

日本の特殊性

日本といふ国は、確かに変はり者だ。以前に「日本人の腦、日本の言葉」といふ記事で書いたが、日本語を母国語とする人は、その他の大多数の人々とは異なり、母音を言語処理の優位半球(多くの場合左脳)で処理してゐる。これは一つのやや特殊な例に過ぎないが、與那覇氏は、中国と比較する形で、日本の特殊性を示してゐる。氏によれば、中国は「可能な限り固定した集団を作らず、資本や人員の流動性を最大限に高める一方で、普遍主義的な理念に則った政治の道徳化と、行政権力の一元化によって、システムの暴走をコントロールしようとする社会」なのだが、その特徴は次のやうに整理される。

  1. 権威と権力の一致
  2. 政治と道徳の一体化
  3. 地位の一貫性の上昇
  4. 市場ベースの秩序の流動化
  5. 人間関係のネットワーク化

これに対して、日本は、次のやうな特徴を持つてゐる。

  1. 権威と権力の分離:名目上のトップはおほむね「箔付け」のための「お飾り」であり、運営の実権は組織内の複数の有力者に分掌されてゐる。
  2. 政治と道徳の分別:政治とはその複数の有力者のあひだでの利益分配だと見なされ、統治体制の外部にまで訴へかけるやうな高邁な政治理念や、抽象的なイデオロギーの出番はあまりない。
  3. 地位の一貫性の低下:たとへ「能力」があつても、それ以外の資産(権力や富)が得られるとは限らず、むしろそのやうな欲求を表明することは忌避される。
  4. 農村モデルの秩序の静態化:前近代には世襲の農業世帯が支へる「地域社会」の結束力がきはめて高く、今日に至つても、規制緩和や自由競争による社会の流動化を「地方の疲弊」として批判する声が絶えない。
  5. 人間関係のコミュニティ化:ある時点で同じ「イエ」に属してゐることが、他の地域に残してきた実家や親戚への帰属意識より優先され、同様にある会社の「社員」であるといふ意識が、他社における同業者とのつがなりよりも優越する。

那覇氏は、本の中で、かうした日本の特徴が現代の政治に及ぼす影響について詳しく述べてゐるのだが、経済面の影響も大きい。次のやうな事態が生じるからだ。

  • 変化の時代にはトップの決断が重要なのだが、サラリーマン社長には、大きな変革を指導する見識も実力も無い。
  • 大きな変革のためには、今後の方向を示す指導的な理念が欠かせないが、さうした理念を示すといふ訓練ができてゐない。
  • 能力と待遇が一致しないので、特に仕事の割に給与が安い若手や中堅については、優秀な人材を外から採用するのが難しい。年功序列などの能力とは異なる指標で待遇を決めて来たので、そもそも能力を評価するといふ経験が乏しい。
  • 自社内の雇用のみならず、下請け企業のことも考へなければならないので、思ひ切つた策が講じられない。
  • 同業他社への転職は裏切りと見做されるので、経験を生かした転職が難しい。会社側としても、即戦力の中途採用が困難になる。

かうした日本経済の問題は、未だに解決したとは言へない状況だ。規制緩和で企業の負担を軽減する方向の施策が講じられてきたが、コスト削減のために非正規雇用者を増やしたり、資産を売却したりといつた縮み指向の経営が目立ち、現金をため込む結果となつてゐる企業が目立つ。そもそも、企業とは株式等によつて資金を調達し、事業によつて収益を上げて、社会のニーズに応へるとともに投資家に還元するための組織のはずだ。それが現金をため込んで、どう使へば良いのかが分からなくなつてゐるとも見える状況は、本末転倒としか言ひ様が無い。

GDPでは世界第3位の地位を保つてゐるとは言へ、2位の中国とは3倍近い差がある。一人当たりGDPでは、シンガポールの3分の2の水準に落ち込んだ。韓国にも追ひ上げられてゐる。

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資料:GLOBAL NOTE 出典:IMF
日本の未来

それでは、この国には衰退の道しかないのか。與那覇氏は、三段階の「中国化」、最悪の場合には北朝鮮化といふあり得るシナリオを示しながら、「人口開国」により世界中から来た人がお年寄りを支へる仕組みを作る、世界に示すべき理念を持たない中国に憲法九条を押し付ける、などの道を探るべきだと述べてゐる。

かうした意見には、反論もあるだらう。ただ、はつきりしてゐるのは、日本の進むべき道は日本人が自分で考へるしかない、といふことだ。日本といふ国は、他にはない特徴を持つた国であり、世界の発展に独自の貢献ができる力を持つてゐる。グローバル化といふ条件を前提としながらも、その中で自らの特徴を生かす道を探ることが重要だらう。

人文社会科学の社会への還元

那覇氏の本は、最近の歴史学の成果を踏まへて、「日本の中国化」といふ大きな物語を作り上げたものだ。人文社会科学の成果が生かされるのは、人々の理解を通じてである。自然科学の成果が、人々の理解の有無に関らず、物を通して人々の生活を改善するのとは異なる。従つて、研究成果の普及啓発が欠かせないと言ふべきだらう。専門家は、それぞれの研究成果を分かり易い形で、社会に示す義務がある。與那覇氏の本は、さうした役割を果たすといふ意味でも、有意義なものだ。様々な反論もあるだらうが、さうした反論によつて議論が盛んになることが大切なのだ。

那覇氏はこの本の執筆後、鬱病を患ひ、大学を辞めるといふことにもなつたが、最近ではさうした経験を生かした本『心を病んだらいけないの?―うつ病社会の処方箋―』で小林秀雄賞を受賞してゐる。今後の活躍を期待したい。

なほ、『中国化する日本』については、ネット上にも様々な書評が載つてゐるが、その中では、季刊政策・経営研究2012.Vol.4中谷巌氏の評が良いものだと思つた。佐藤優氏の評も興味深い。