メルロ=ポンティのベルクソン観

小林秀雄は、メルロ=ポンティを読んでゐた。郡司勝義さんが、かう書いてゐる。(「一九六〇年の小林秀雄文學界2002年9月号263頁)
「『本居宣長』だけに集中して、先づそれが終つてから再び手をつけようと思ふ。しかし、メルロ=ポンティはなかなかいいから讀み續けてゐるが、寧ろこれは宣長さんの方へ先に注ぎ込んでしまふかも知れない。」と半ば微笑しながら語つてゐた。--メルロ=ポンティの名は、つひに氏の作品のなかには現れずじまひだつた。公けにはただ一度、第三次小林秀雄全集發刊を記念しての講演會が、紀伊國屋ホールで行はれた時であつた。小林は、「最近、勾玉に惚れこんでゐますが、これをぢいッと見詰めてをりますと、メルロ=ポンティが言ふやうに向うが逆にこつちを見詰めてゐるやうに感じてくるんです。」と言つた。右の掌を少し開き何かその中に握られてゐて、それをぢつと見詰めてゐる仕草をした。
「再び手をつけようと思ふ」といふのは、ベルクソン論『感想』のことである。

 

"Bergson se faisant" の中で、メルロ=ポンティは、こんな事を言つてゐる。

Le bergsonisme établi déforme Bergson. Bergson inquiétait, il rassure. Bergson, c'était une conquête, le bergsonisme défend, justifie Bergson. Bergson, c'éait un contact avec les choses, le bergsonisme est un recueil d'opinions reçues.
確立されたベルクソン主義は、ベルクソンを歪める。ベルグソンは不安にさせたが、それは安心させる。ベルクソンは、一つの征服だつたが、ベルクソン主義はベルクソンを守り、正当化する。ベルクソンは、諸物との触れ合ひだつたが、ベルクソン主義は受け入れられた意見の集積である。

 

この意見は、『感想』27章で小林秀雄が述べてゐるものと同じだと言つて良い。考へるといふのは、常に超えて行かうとする努力であり、立ち止まれば、考へは死ぬのだ。確か、アランも、師ラニョの言葉を引いて、固まつた思想は物でしかない、といふ意味のことを述べてゐた。