さぼる脳

計見一雄さんの『脳と人間』を、ときどき取り出しては、少しづつ読み進めてゐる。現実の症例をいくつも見て来た臨床医の言葉だけに、重みがある。

 

精神病棟には、不思議な若々しさを保った患者が何人かいる。症状はさまざまだが、ようするに過去のままなのである。そういう人が稀に治癒する。すると、不思議にも急に老け込んでしまうので、治して悪かったような奇妙な申し訳なさを覚えることがある。
 若々しいままの人との話には、まったく現実感がない。話の中身にも、会話が行き来するフィールドにも。現実感というより現在感がない。ただ言葉とその意味だけがツルツル行ったり来たりしている。当然ながら深刻にはならない。肝心のこと、つまりこれからどうするのかはほとんど主題化できない。妄想的テーマに埋められている人にも、必ずしもハッキリとした妄想に閉ざされているのではない人にも、この現象はある。
 これらは結局のところ、現実-現在を構成することがエネルギーを要する労作であるので、脳がサボるのである。どうサボるかというと過去のデータの自動発火だけを延々と繰り返すのだ。妄想の森の住人のように、いつでも同じ呪文を唱え、いつも同じ結果と失望を繰り返しながら、決してそこから学ぼうとしない。(講談社学術文庫版296頁)

 

裏切りを終世許さず瞋恚の炎を燃やして生きる人と、妄想回路に閉ざされている人と、人間の存在の仕方としては大した違いはない。過去に入ったデータのみを過重に尊重しつづける頭の持ち主もほぼ同様である。
 暗記術優位、作表術優位、上位者への服従とその表現優位に育てられた、わが日本陸軍の将校諸氏の戦いぶりを想起してみるのも間違った連想ではない。そういえば、海軍にも「前動続行」という艦隊運動の原則があったが、まさに日本軍全体が「前動続行」を繰り返しつつあった、という記述が『失敗の本質-日本軍の組織論的研究』にある。日露戦争の戦訓で太平洋戦争を闘ったと言われる所以だ。
 ここでにわかに現代史の話になって戸惑われるであろうが、精神分裂病精神病理学は二〇世紀の時代病理学でもあると私は思っている。司馬遼太郎氏は昭和の前半を振り返って「国民は魔法の森に入り込んだようであった」と書いている。なぜ魔法の森かと言えば、おまじないに応じて次々に醜怪な化け物が出現したからであろう。そのまじないの代表格が「統帥権」ないしその「干犯」であったと。別に話は昭和の日本に限らなくて、イデオロギーなるものが我がもの顔してのさばった国々はすべて同断である。つまり、符牒化した言葉で具合の悪いことを全部説明するという現象は、すでに精神が相当衰弱していることを示すのだ。エネルギーが不足しているのだ。
 つねに正解があるという頭は困り者である。この正解はフォーミュラ(公式)の存在を前提とする正解である。そういうフォーミュラも正解もなしというのが真相だからだ。ワーキング・メモリーは、未知の世界でしかも変転常ならぬ世界を探索するために開発されたのである。正解を暗記すればぜーんぶOKなら、ワーキング・メモリーは不要である。だから使わない、使わなければ発達しない。どういう教育をすれば病気になりやすいか、そろそろお分かりであろう。
 餓鬼(がき)の時に悪さをたくさんやらせないとだめなんです。(同297~8頁)

 

と、引用を始めれば切りがない。ベルクソンも言ふやうに、この世の中は、絶え間ない創造の世界なのだ。変化する世界を知るのが、目覚めた人間として生きるといふことなのだ。さうした力が、人間自身の作り出した物の重さに耐へられなくなつてきたのが、十九世紀末以降の世界なのだらう。だから、ニーチェベルクソンのやうな生の哲学と呼ばれる考へ方が出てきたのに違ひない。

 

成長するとは、変化することだ。いつまでも若いことを有難がつたり、同じ文句を飽きずに繰り返したりする人たちは、皆、多少とも脳のエネルギー不足を病んでゐると言ふべきだらう。