「もの」と「こと」

長谷川三千子氏の「日本語の哲学へ」(ちくま新書)を読む。「日本語をもって思索する哲学者よ、生まれいでよ。」といふ和辻哲郎の言葉に応へ、「もの」と「こと」といふ言葉を頼りに、西洋の言葉に依る存在論ハイデガー)を超える試み。なかなかの力作である。

 

和辻哲郎が持つてゐた問題意識は、長谷川氏の解説によれば、次のやうなものだつた。

 

ここに氏が言おうとしているのは、そうした「学問的用語」と「日常語」とが切りはなされており、「日常語は大体として取残されてゐる」ということなのである。和辻氏はそういう状況をさして、そのような「学問的用語」は「根をきり離してゐる」言葉であり、日常語のように「Tiefe〔深奥〕から出る根の上に立つ」「底力」を欠いている、と評する。そして、そういう「底力」のない学問的用語によって哲学が学ばれるときには、たしかに正確な学問の受容は行われるであろうが、それは「その外国語自身の持つてゐる発展の力を含んでゐないと共に、又それ自身に発展する力を持つては居らぬ」と氏はいうのである。(23~24頁)

 

ものを考へるには言葉が欠かせない。哲学も文学の一種だとすれば、他の芸術と同じやうに、作る前から何が出来るかが分つてゐる訳ではない。だからこそ、書く。書くと、思ひがけないものができる。それが創作といふ作業だ。翻訳語には、母語の持つ豊かさが無い。それだけ驚きも少ない。

 

日本で学問的用語と日常語が切りはなされてゐるといふのは、日本が文化の辺境にあり、先端的な文化を輸入に頼つて来た歴史を持つからだらう。これは明治に始まつたことではなく、日本といふ国ができて以来の事情だ。この問題点に気付き始めたといふのは、学問の分野でも日本が先進国になつて来たといふことだらう。

 

この本の前半で、長谷川氏は、和辻哲郎の二つの論文「日本語と哲学の問題」、「日本語に於ける存在の理解」を取上げ、日本語による哲学の可能性を具体例によつて示さうとする。和辻がデカルトの Cogito, ergo sum. を「私が思ふ、だから私がある」と訳して、「思ふ」といふ日常語と cogito といふ学術語の差を示さうとしたのは、「我思ふ」をデカルトがもともとフランス語で書いたことを考へると、「いささかトンチンカン」だが、「私」といふ日本語が社会を前提としてゐることから、ハイデッガーの Mitsein に言及するのは、「豊かな水脈を掘りあて」たのだ、と言ふ。

 

後半では、「もの」と「こと」といふ日本語が、西欧哲学の中心的課題である存在論に、新たな視点を提供することが示される。個人的には、この部分が一番興味深かつた。「もの」と「こと」については、大野晋氏の有名な論があるが、長谷川氏はこれを批判的に取上げ、一歩先に進まうとする。結論だけを抜き出せば、かうだ。

 

ここに至ってわれわれは、ようやく、日本語において「もの」と「こと」とが一組の対をなしている、ということの意味に思いいたる。大野氏や荒木(博之)氏が、「もの」は原理的、「こと」は時間的、という区別をしていたのは、あらためて評すれば、まったく不正確な区別だったのであって、本当のところは、「もの」も「こと」も、どちらも「時間的」なのである。ただ、「こと」が時の到来し出現する、その「つぎつぎになりゆく」側面に目を向けているのに対して、「もの」は、出で来ったものが過ぎ去ってゆく、その後姿を眺めやっている。さらには、それらが「いづくにか」去りゆく、その「いづくにか」のかなたを見やっている。これら二つの、どちらが欠けても、われわれの世界観は完成しない。われわれは「もの」と「こと」という二つの語をもつことによって、この世界を、事物と事象という二つのジャンルに分けて眺めることができるのと同時に、この世界の生成と消滅との両側面を二つながらに凝視することができるのである。(232頁)

 

長谷川氏は、この日本語の示す結論をハイデッガーの『存在と時間』と比べて論じてゐるが、ベルクソンの『創造的進化』あたりと比べるのも面白いのではないだらうか。

 

ちなみに、「あとがき」によれば、この「もの」と「こと」に関する部分は、亡くなつたご主人長谷川西涯氏の「相続遺産」なのださうだ。

 

長谷川三千子氏の本を読むのは初めてだが、内容は面白い部分が多いものの、書きぶりには違和感を感じた部分もある。一言で言へば、「偉さう」なのだ。まあ、男社会の中で頑張つてゐる女性の大変さを思へば、多少の威勢の良さは大目に見るべきかも知れないが。